歴代名物五輪選手列伝
福島初の五輪選手は三浦弥平
福島民友新聞社から刊行された「福島百年の人々」には、スポーツ界の人脈について紹介されているがこのうちのオリンピック関係の記述では県内で最も詳しいので、再構成して紹介する。
梁川町から二度も五輪出場した三浦弥平は伝説的なエピソードの人物だった。
「オリンピックは勝つことではなく、参加することに意義がある」という有名なクーベルタン男爵のことばがあるが、福島県人で初めてオリンピックに参加したのは梁川町出身の三浦弥平だ。
大正九年、一九二〇年アントワープ大会でのマラソン選手である。三浦はつづく一九二四年のパリ大会にも出場した。
マラソンは古くギリシヤからオリンピックの花。三浦は試合前の試走で二時間三十分台を走りラップをとった。このタイムでゆけば「メダル」は確実だったのだが・・・。大会組織も不じゅうぶんなら、日本のコーチ陣も経験不足、スタート時間がはっきりしないとあって三浦はコンディションを狂わせてしまった。そのうえカゼ気味で、結果は二時間五十九分三十七秒で二十四位。
次のパリ大会は棄権者が続出し、モチを食べた三浦もハラがもたれて棄権した。三浦は明治二十四年宮城県境に近い旧白根村一現梁川町白根字木ノ田)の養蚕家の末っ子として生まれた。資産家で、いまも石垣のうえに建てられた大きな屋敷にその全盛期のおもかげをとどめている。三浦は七十六歳の老身ながら元気にひとり暮らしをしている。
三浦にはエピソードが多い。不意の来客があって「ナニか買ってきましょう」とワラジを腰に家を飛び出し、やがて新鮮な魚貝を背中に帰ってくる。「ちょっと相馬まで行ってきた」。相馬まで往復六十キロはある。ケロリとしたものだつた。メン羊をつれて富士登山するといって新聞社が追いかけた。だが伴走のメン羊が六合目付近で高山病になって動けなくなつたとかで、三浦はメン羊をおんぶして項上を征服した。
また、戦後選挙に立侯補したこともあるが、このとき政見を取材にきた記者は、走りながら話す三浦を自転車で追いかけなければならなかつた、という。
三浦は梁川小から宮城県白石中に進み、早大に進んだ。早大時代、後輩に故河野一郎がいた。
「当時のオリンピック選手で金栗さんと並び称された三浦弥平さんが私を捜し出して、マラソンをやる気はないかと勧誘された。オリンピックという肩書きに、いなか学生の私はすっかり感激し、その場で勧誘に応じた」(「自伝河野一郎」)。
また箱根駅伝では難所の山のぼりはきまって三浦だったが「対抗試合ぐらいで足を痛め、からだを悪くすることはバカげている」といって全力走破せず「オリンピック選手になるような人は対抗試合ていどではあまり興奮しないのだな」と河野は思つたという。
三浦はパリ大会後、ベルリン大学で整形外科を学び、つづけてドイツの体育大学に進み八年間の留学ののち郷里に帰った。すでに三十を越えていたが結婚せず、宮城県境に「青年の家」をたてオリンピックの思い出とともに生きている。また、本を背中に近郷近在を走って無料で貸して回った。いわゆる「三浦文庫」は戦後まで続いた。オリンピック選手を育てるユメをたくした青年の家は第二次大戦でもろくもくずれたが四十一年宮城県丸森町にキャンプ村を作った。いまでも週に一、二度は梁川の町まで走る。(三浦はその後、昭和四十六年四月二十三日没)