いわきが平泉文化圏であったことの最大の物証は、白水阿弥陀堂である。白水とはいわき市内郷南部の一地区の旧村名で、平泉にちなんで「泉」の文字を上下に分解して地名にしたという伝説がもっぱらである。
白水阿弥陀堂は正しくは願成寺阿弥陀堂という。これを建立した徳姫は藤原清衡の養女といわれ、岩城則道(一説に隆行とも)に嫁いだが、亡き夫の菩提を弔って、1160年(永暦元年)に創建されたといわれる。
元来は白水寺と称し天台宗であったが、現在は真言宗が管理している。天台と真言とは平安仏教としてライバルなのだが、宗派を超えて存在するのは永遠なる「白水」という名称だけだ。
旧白水村(のち白水町)の、美しい水(泉)の流れる土地である由を主張する一説もあるが、建立者の背景を状況証拠とすれば、平泉説に軍配が上がろう。阿弥陀三尊という傑作仏像の藤原時代末期の洗練された技巧は、構造、表現ともに平泉中尊寺のに酷似しており、「金色堂で活躍した仏師たちの手になるものであろう」(菊池貴晴)という。
さて、「平」という地名は、平氏説と平泉説などがあるが、謎だ。これと対のような「泉」の方は、いわき市東部の磐城地区の旧村・村名で現地名だが、「酒のわき出る泉を発見して金持ちになったといわれるが、はっきりしない」(原田榮)
いずれも謎だが、平安の藤原文化は鎌倉の源氏に代表される武家文化に駆逐されて滅びようとする時に、最後の抵抗として「地名」に彼ら一族の願いとして遺そうとした、とみるのは歴史パズルを解くクイズのようで面白い。
「白」プラス「水」で「泉」。「平」と「泉」で「平泉」の文字ができる。
西洋に歯アナグラムという言葉遊びがあるが、これは文字の綴りをひっきり返して意味の意外性を楽しむ。
古代日本からの子と場遊びの中にも、文字の分かいと再構成によるものがあるが、これもアナグラムの一種だ。
藤原一族は、歴史から消滅する運命にある。新たな権力(源氏)の時代の地下水脈でしか、その歴史的生命を保つことができない。
磐城氏の祖となった磐城則道は、平安時代後期の人で、生没年不詳だが、平安忠の長子として常陸府中(茨城県石岡市)に生まれ、「故あって奥州に下り藤原清衡に寄る」「岩城氏の系譜についてもなお検討を要する」(菊池康雄)
源頼義の娘で清衡の養女となった徳姫(のち徳尼)を配して、平泉政権は則道を用いて、自領の「いわき地方を治めさせた」のである。
つまり、いわき地方は、百年史の視点から見ると、同じく新産都市の指定を受けた郡山に比べて、大きく水をあけられた恰好なのだが、千年史の視点から見れば、きわめて開発の早い先進地だったということが言える。
しかしながら、近代の百年パラダイム史観とは、同じ価値体系からは重なり合わないので、同列では論じられない異質の次元にそれぞれ属する。
郡山といわきとは、単に空間的に隣接する地理的条件でなく、全く違う二つの時間系に閉ざされた、別々な都市であるという事ができる。

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