岡和田甫詳伝
明治13年に父新蔵が品川弥次郎が東北巡回のとき富田高慶を訪ねたときのことを語る
「二宮尊徳の高弟 富田高慶」(広瀬豊 敏子)のP267に、近隣古老の談として次のようにある。
「岡和田甫氏(原町在住)昭和二十二年数へ年六十五歳、付近に伝わる伝説の一部を述べた。」
として
品川弥次郎が内務省勧農局長のとき、東北巡回のとき石神村に富田高慶を訪ねたときのことを語っている。
この一件は、富田自身が日記(明治13年11月3日)にしるしているが、品川は同局役人とともに、富田はその時に居合わせた塾生とともに面接した。
そのなかに、渡辺庄太郎、斎藤太郎(高教長男)と一緒に、岡和田新蔵(甫の父)がいて、お茶の接待をした。いずれも少年で談話の内容は解らなかったが、その時の様子を伝えている。
後年、相馬民謡ほか伝統芸能の振興につとめた岡和田甫の父親が少年のときの記憶である。
海岸タイムスを創刊
明治43年1月5日
原町向上会 相馬郡原町尋常小学校五年六年生徒及び卒業生より成れる原町向上会は二回の総集会を二日午后零時より同校内に開く 岡和田甫題未定等の講演あり午後五時散会せり
大正4年、民報は桑村という記者が野馬追いを見物に来た。
「雨の相馬」(4)民報 大正5年7月24日
岡和田と佐藤政蔵について言及がある。
私立草津温泉の一騎亭に行いた、岡和田君も髭さんも一緒で、夫れに松浦君も加はった。
また別紙同業の後藤迫洲もこの時の紀行に書いている。
浜路の旅 迫洲生
三
群衆と騒音の中を、同業桑村君と半谷馬城君と、原町の有志数名の案内に、雲雀ヶ原へと向ふ、青草の匂ひ高い原を、汗と雨に濡れ乍ら群衆は永く続いた。知事が反返る可く用意された天幕休憩所へと入って同業子ズラリと知事の側に腰を据える。唯観れば、緑野茫々、数千の騎馬武者は、旗印を青嵐に吹かせ乍ら勇ましく縦横に疾駆する。壮観な旗取りの争奪戦を観て午後三時雲雀ヶ原を辞した。
有志、佐藤政蔵、岡和田甫両名其他が、途中、付近の旗亭に請じて呉れる。
大正5年7月
海岸タイムス社から「海岸」という雑誌を発行 発行人岡和田甫
「今回社業漸くその緒に着き従来の体裁を一変して茲に隔週雑誌の発刊を見るに至りしは社業の一大進歩にして其基礎の健全を立証するに憚からず候海岸と改題せるは血気の少年より真摯なる青年に到達せる元服の意表に有之候」「次号よりは浜三郡に於ける諸般事情の機関として極力文物紹介の任に当るべく候若しそれ其主義主張に至りては飽迄善事の味方悪事の敵従来タイムス社の方針の外ならず候」
「本社は去る(明治)四十三年創立以来諸君に多大の御同情を忝なふし感謝の辞も無之次第にござ候」(大正5年「海岸」)
印刷人 山岡隆利
元町長隆剛の関係者か
広告に原町印刷合資会社 電話四十二
がある。ここで印刷していたと思われる。
大正7年 新年句会 海岸タイムス前
現在の東町
大正7年 海岸タイムス社 「原町地方案内」
大正7年福島日日
1.20.
荒川偉三郎 岡和田甫 相馬記者団創立
1.13. 相馬記者団発足
大正7年2月4日
原町町長不在問題
在相記者団臨時会は去る一日原町海岸タイムス社内に於て開会し原町町長不在問題に関して熟議し午後黒田岡和田両幹事及び大和田、荒川の四名にて
大正14年10月24日民友 株主総会
原町支局 岡和田甫
女性候補として
民友青年会議 岡和田とみの原町
大正15年4月9日福島毎日
相馬流山の出演者決定 組頭岡和田甫
昭和2年1月19日民友
中村 佐藤勝信
昭和2年 報徳殿
1月14日 端した金で売られる二宮尊徳の家 民報
原町夜の森公園に今月中移転に着手
相馬郡石神村役場旧庁舎はもと二宮尊徳翁の住宅をそのまま使用したのだが改築に伴ひ不要になったので二宮尊徳遺物保存会で此由緒ある建物を此まま破棄するを遺憾となしこれを利用して二に宮報徳殿を建設せんとの議起り付近十二ヶ町村長発起人となり費用の寄付募集をなしたるも建設敷地に行きなやみを生じ今日に至っていたがいよいよ敷地も夜の森公園東北隅と決定したるを以て今月中建築に着手する事になった
昭和2年 石神村役場落成記事 民友
石神村役場
新築落成式
二宮尊徳翁の旧庁舎を
廃して現代的に建築
…………………………
◇・・・来賓八百余名
相馬郡石神村役場は曾て本紙上に報導したる如く有名なる二宮先生の一家が住居せらるたる家屋なるが、明治三十一年尊徳翁の令孫尊親氏北海道開拓のため渡海せらるゝに際し
該家屋を 石神村に交付し同村にては永く二宮翁の徳を記念するため之を村役場として尊重されて来たが、時勢は遂に村当局を動かし二宮家の旧庁舎を廃して新に役場建設の事に村議一決なし本年一月中旬を以て起工し大和田村長、池田助役、工事委員佐藤圓治、田原甚助、牛庚(渡ノ誤リカ)長治、武野直人の各氏監督の下に請負人太田亥之吉、高橋栄助両氏と協力して該工事を急いだる結果僅々三ヶ月を出でずして洋風セメント瓦ぶき木造りとは言へ頗る現代的な新庁舎が、約九百圓の工事費にて出来上がつた、よつて去る八日午前十時より之が新築落成式を
挙行する こととなり来賓として南相に於ける各町村長及び官公吏並に同村有志家を合して八百余名同村長の案内にて式場に設けられたる新議事堂に入れば正面の床上に掲げられた二葉の写真之が昔を忍ぶ二宮先生の住宅である古色蒼然たる葺萱の家も鬱蒼たる屋後の老杉も曾ては世人が崇仰の的たりし例の厳めしき冠門も今は唯この画面に忍ぶだけで、早変りしたる新庁舎と対照なし転々今昔の感に打たれざるを得ない、やがて一同は定めの場所に着席、先づ池田助役開会を宣し大和田村長の式辞並に工事報告あり次で工事委員その他の
功労者に 賞品及び賞状を授与し来賓として佐藤原町長佐藤原警察署長、水戸同村校長その他の祝辞あり受賞総代の答詞ありて正午、式を閉ぢ牛越河原に設けられた別室に於て盛大なる祝宴会を催し特に当日を卜して開催したる郷土芸能二十余番を観覧して盛会裡に黄昏頃散会した
(福島民友新聞・昭和2年5月11日)
二宮尊徳翁の住宅を保存
8.11. 広告往来 相馬盆踊レコード売り出し 民報
昭和3年7月11日
福島民友新聞社
原町支局
主任 岡和田甫
中村支局
主任 佐藤勝信
という広告が載っている。
この日付は野馬追の初日である。
10.14.流山踊りも加へて野馬追出場決まる全国馬匹博覧会
10.27. 野馬追大もて 帝都で大好評きのふ馬匹博覧会に練り歩いた五十騎 民報
昭和3年 民友 10.1.御大典奉祝 演芸大会主演者投票、民謡 岡和田甫
昭和4年 活動写真 霊山の顕家
昭和4年 活動写真「川中島」
2月24日 野馬追映画を俳優抜きで撮影甲越軍記の長尺物近く相馬で公開 民報
昭和7年5.14.報徳殿地ならし 写真
昭和7年1月28日
原町町長選挙けふ
相馬郡原町町長選挙は愈々二十八日行ふに決したが、町会議員大橋勝治氏の死去により同点岡和田甫氏の当選となったので候補者佐藤貫良氏の当選確実とみられる
1月31日
原町町長に門馬氏当選
数ヶ月に亘って紛争を極めた相馬郡原町町長選挙は二十八日町会を開き投票の結果
十一点 門馬直記
十一点 佐藤貫良
民友8.1.6.
原町町長 詮衝を熟議 十日頃町会協議会
全議員獲得に 一千圓ばらまく
贈賄の阿部町議すらすら陳述
原町々長選挙公判
二つの疑獄事件
二つの疑獄事件判決、昨年五月行はれた原町々長選挙に際し議員買収を行った前原町長松永七之助氏以下町議七名、前町議一名の涜職・・・・福島地方裁判所で公判審理中であつたが二十日午後両事件の被告は仲良くならんで・・・金裁判長から左の如く判決を言渡された
以下町議七名の中に、岡和田甫もいる。
民報の記事でみると。
原町不正事件
【贈賄】
懲役五月(二年間執行猶予)
阿部 市助
同四ヶ月 松永七之助
【収賄】
懲役五ヶ月(追徴金百円)
木幡 忠太
同五ヶ月(同二百五十円)
佐藤 貫良
同四ヶ月(同百五十円)
岡和田 甫
同四ヶ月(同百円) 木幡 清
同三ヶ月(同五十円)山本 伊助
同二ヶ月(同二年間執行猶予)
木幡 徳松
同三ヶ月(二年間執行有余追徴金
五十円) 佐藤 儀平
(福島民報・昭和8年3月)
昭和9年 民友 野馬追武者が富士登山
岡田首相に面会す 写真
.11.1.9報徳十訓 岡和田甫 「御仕法和楽」を作詞 石神に二宮神社 東京日日
13.5.27.日露戦争に従軍した岡和田甫(一水)
14.9.22.岡和田コメント 東京日日
15.1.9.岡和田甫、とみの
15.12.22.原町の隣組
第九区 西原 岡和田甫 七一
18年
4.3.相馬の郷土芸術東京で 相馬郡原町の相馬郷土芸術振興会では興亜馬事会の招聘により七日夜日比谷公会堂で行はれる愛馬の夕に出演することになった演芸は相馬民謡及び野馬追剣舞で一行男女廿四名は六日上京するが八日には日赤中央病院をこの演芸で慰問する
19年
《動議》
海軍一等兵曹長中野磐雄君戰死ニ就テ町會ニ於テ弔慰ヲ表シタキ旨動議アリ
全員之レニ賛成セルヲ以テ議長ハ左ノ三名ヲ代表トシテ推薦ス
弔慰代表 岡和田 甫
松浦 誠寿
門馬直次郎
佐藤中行氏の結婚式で祝辞
昭和22.1.5.
岡和田甫広告
28.8.26.夕刊 野馬追富士に登る