落葉賦(1)
半谷菊衛君のこと 石川正義
本社小高支局半谷菊衛君が死んだ。
十一月二十六日午前十一時、銀杏の葉の散る仙台大学病院関口外科の病室で、わくら葉の散るやうに三十八歳の秋を最後として悲しくも彼は散って行った。三日前の二十三日午前十時、福島からの帰路に立ち寄った僕に顧みて、共同で発行していた相双タイムスの事を案じながら、細い声を出してタイムスは僕が帰るまで止めずに出していて呉れ給へ
君には全くすまないが僕はタイムスは続けるよナ二僕は大丈夫続け得ると信じているから、まあ君も根本的に癒し給へ
と力付けては見たものの、半谷君居ない後のタイムスは可成りの難経営に逢着していた
もともとこの小新聞は半谷君中心に始めて来たものだけに、—僕がある関係上名義人にはなって居たが–半谷君を抜きにしては存続の理由すらも見出されなかった訳なのだ。
印刷所の関係上、どうも思い通りの新聞が出せずに僕も内心嫌気をさして来ていた折だけに、本当の事を云へば半谷君が病んでいるからこそとも云いたいだけの存続理由だったのだけれど—-
僕が半谷君と始めて知り合ひになったのは大正十三年頃、僕が青年農民同盟と云ふものを作って機関雑誌「耕す声」を出した頃からだったと思ふ。
12.2.
その前半谷君は、明大を半途にして郷里に帰り、小高文芸会などに関係していてその頃台頭していた雄弁熱の盛んな頃東北文芸協会主催の県下青年雄弁会に優勝し一躍名声を馳せていた。:英雄から凡人
と云ふその時の演題は今も覚えている。
僕はその頃は村の一農夫として紋々悶々していた頃なので、この半谷君等の立場を羨ましくも感じていたものだった。半谷君が浪江小学校に転任して—-その頃教員になっていた—-浪江町の青年を総合して新青年団体北標会を始めた頃僕は上京して山田忠正氏市民雑誌に入っていた。
僕が震災で故郷に帰り、半谷君の去った後に北標会に加入して、その頃大井不二夫君等が中心になって出していた同人雑誌北斗星に盛んに左翼的議論を吠えていた。
大正十三年春、僕は青年農民同盟を組織して耕す声を出し、今共産党事件に連座している鈴木安蔵君等と共同戦線を張り、講演などをやり回る頃は、今度は半谷君が教職に在る身を盛んにかこつていた。
半谷君と僕との関係を最も密接にしてしまったのは、昭和三年春の総選挙に中立で山田忠正氏を担ぎ出し盛んに既成政党打破を叫び廻った時からだ。
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その時の半谷君は福島毎日新聞の支局をやっていた、僕と馬場周時君を誘惑し遂に既成政党打破組に引き入れてしまったのだが、そうれから云ふものはこの僕等は政民両派から所謂打破なる折り紙をつけられて、全く異端者扱いを受けていたものだ。
その後僕は巧みに民政派に食い込み得たのに引き続いて半谷君はやはりどっちともシックリせず純新聞人として立ってきた。
その後この打破組は全く去就様々となってしまった、けれど僕と半谷君とやはり以前の打破組に加わった新人坊主青田暁仙君の三人はいつも一緒に歩いてきた。
打破組の蔵相を承はっていた馬場君などは可成り種々な道草を食って漸く此頃民政党に戻って来た。
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半谷君は地方の新聞関係者には見られない素直さを持っていることに於いて、何処へ行っても評判がよかった。
それだけにまた政党人からは問題にされなかった様だ。そして僕と同じ様に経済的にはいつも悩まされていた様だ。養父氏が羽二重工場で失敗してからは殊更に半谷君にはこの重圧が加わっていた様である。
貧乏の点では何と云っても僕が筆頭だったらうけれども家では百姓をやっているお陰で、食うだけはあまり心配していなかっただけに、半谷君は君は呑気だらうなどと言っていた。
「呑気どころか、洋服の繕ひ様もないよ」などと語り合っていたりした。
その点では青田暁仙は一番呑気だと定評していた。
今年九月、県会の選挙を前にして半谷君は持病が悪化して突然仙台に入院してしまった。
この事は承知していても、選挙で忙しかったので、つひ仙台に寄る機会もなくていたが、選挙も終わった十月初旬、僕は初めて病床の彼を見舞った。彼はこの時、余程懐かしかったと見えて
「君握手しやう」と云って痩せた手を差し出した。
「悲しそうな声を出すなよ、まだ若いくせに、これ位で負けていられるもんか」と云って彼の手を握った時、関口外科の研究室にいる医博の卵大井不二夫君が顔を出した。僕を呼んで
「僕の室に行かないか」と誘ったのに対して、彼は悲痛な声を出して
「君、あんまり話すなよ、羨ましいから」と云った。
彼も苦しい笑いをしたし、大井君も僕も笑った。
大井君の話では、半谷君の病気は胃癌でその手術は医学的には理想的に行ったからまず心配はあるまいとのことであった。
二十三日は僕はどうしても仙台に寄りたかった。虫が知らせたとでも云はうか。僕は真っ直ぐに病院に行った。
彼は思ったより痩せていたが、意識は明晰で、少しも話すことが間違って居なかった。
汽車の都合で僅か三四十分で帰ったが、こんなことになるのならも少し話しておくんだと悔やんでいる。
もう彼は亡骸となっている。落ち窪んだ目。やせ衰えた手。僕はこれを忘れならない。
彼は五尺六寸もある大男なのに僕は五尺二寸に足りない小男なので、並んで歩くと殊更に僕はキマリが悪かった。大男の彼は敢なくも倒れ、小男の僕が、まだまだリスのやうに跳廻らうとしている。
そのリスの僕は彼の死に位大きなショックを受けた覚えはない。
もう大男の彼とならんで歩く事も出来なくなったかと思ふと、今年の秋はほんたうの秋のやうな淋しさを覚えた。
一九三一、一二、一
12.5.