メモ

「二宮尊徳の高弟 富田高慶」(広瀬豊 敏子)のP267に、近隣古老の談として次のようにある。
「岡和田甫氏(原町在住)昭和二十二年数へ年六十五歳、付近に伝わる伝説の一部を述べた。」
として
品川弥次郎が内務省勧農局長のとき、東北巡回のとき石神村に富田高慶を訪ねたときのことを語っている。
この一件は、富田自身が日記(明治13年11月3日)にしるしているが、品川は同局役人とともに、富田はその時に居合わせた塾生とともに面接した。
そのなかに、渡辺庄太郎、斎藤太郎(高教長男)と一緒に、岡和田新蔵(甫の父)がいて、お茶の接待をした。いずれも少年で談話の内容は解らなかったが、その時の様子を伝えている。
後年、相馬民謡ほか伝統芸能の振興につとめた岡和田甫の父親が少年のときの記憶である。
この本によって、広瀬敏子は福島県文化功労賞を受けたが、実は明治23年に富田が死んだ時、遺産はほとんどなく、子孫のために美田を買わなかった一生を終えた。
また品川のことだろうが、内務官僚なにがしが地方巡遊のついでに旧相馬領に入って、郷人に富田の来歴を聞いたが、誰一人答え得る者がなく、その住居さえ知らぬ者がいた。
ある有識者に問うと、
「富田の民政に参与するや、功は藩主と重臣に帰して一切自分の名を現わさないでので、民間では藩主と重臣の仁徳だけしか知らない」との答えだったという。(門人叢書小林平兵衛)
広瀬敏子の夫婦は、戦時中に東京で焼け出されて相馬石神に疎開し、富田の家の近所に住んだ。広瀬の幼時の同級生だったという富田の孫娘や、生存していた娘らから生前の富田の姿をインタビューしている。
以後の、富田の評伝は、広瀬夫婦の昭和28年刊行の本からの引用か盗用であり、たとえば昭和40年代に出版された岩崎敏夫の「二宮仕法の研究」でも、そっくりエピソードを戴いている。
あとは、もう地元の人々の孫引きや、やしゃご引きである。
富田を、もちあげるのは、二宮尊徳というビッグネームにあやかるためにするものであり、富田の本当の偉さを発掘した広瀬敏子については、たれもが黙殺しているか無知である。その名前はこんにち一般に知られない。
報徳の土地といいながらも、郷土史にかかわる人々の怠慢と忘恩をこそ、感じるのである。

メモ2
富田はしばしば母親の看病などで相馬に帰郷しているが、二宮全集(三の一二○八)のなかに、
「富田が是非帰国して看病したいといふので色々云って聞かせたが、どうしても行きたいといふので已むを得ず許した」とある。
二宮は真岡へ赴任の節に、富田を連れて行って、あてにしていただけに、色々と公私の区別を富田に諭したようだ。
巷間に伝わる、相馬のことを振り返らずに一心に二宮につき従っていたという美談とは、ずいぶん異なるエピソードもあるのだ。
これなど、まっさきに郷土史からは抹殺されている。
富田の帰府の折りには草野、池田の両家老が二宮に手紙を託して、富田が母の難渋する病に、大小便の取り扱いでも余人にまかせず、看病いたし、まことに感心。君父師の三恩の中で師恩はもっとも重んずべき旨をさとし、母子ともに納得したので、江戸へ帰ることになったと記している。
義理と人情の間で、郷里と二宮の間で、けっこう富田の気持ちは揺れている。ごくふつうの人間として、おやがわりの二宮と両家老の両方から諭される場面である。美談だけでなく、ここにはかえってリアリティがある。

メモ3
平田良衛の評伝「百姓一代」(新藤譲著)たいまつ新書28
をたまたま開いたら、平田が小谷部落に入って負債整理組合を世話したころの日記は、ほとんど二宮尊徳関係のもの占められている。
その体験が「二宮尊徳に関する覚え書き」「二宮尊徳と農民問題」という論文となって実る。
平田は、金房村から、地主の息子だったので、ひとり小学校校長の推薦を受けて相馬中学に進学。母の実家の中村町の光善寺から通った。当時、中村に住んでいた尊徳の孫の尊親の講演をそこで聞き、内容は富田高慶の人となりについて、「報徳記」についてである。
これが後年の二宮研究の基礎になっているのは間違いない。

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