慟哭の地1
悲報続きの戦況の中で、昭和十九年の十二月中旬、急ぎの著述があって東京を離れた大木惇夫は、福島県の常磐線沿線の町、浪江の駅にほど近い白木屋旅館に落ち着いた。
時折、警戒警報のサイレンは鳴ったが、まだこのあたりは空襲もなく、平穏な空の下で日夜仕事に没頭することができた。しかし、新年を迎えてその仕事もほぼ完成に近い二月はじめのある夕方、ついに惇夫は脳貧血で倒れてしまった。それっきり病床から起てず、医者からは執筆を禁じられ、転地と静養をすすめられた。神経性心悸亢進症との判断である。ジャワ戦線以来の過労の結果であった。
北の灯23号
東海林太郎「国境の町」の作詞者
戦友別盃の歌 大木惇夫
言ふなかれ 君よわかれを
世の常をまた生き死にを
海ばらのはるけき果てに
今や、はた何をか言はん
熱き血を捧ぐるものの
大いなる胸を叩けよ
満月を盃にくだきて
暫しただ酔いて勢へよ(きよえよ)
わが征くはバタビアの町
君はよくバンドンを衝け
この夕べあい離るとも(さかる)
かがやかし南十字星を
いつの夜かまたともに見ん
言うなかれ君よ、わかれを
見よ、空と水うつところ
黙々と雲は行き雲はゆけるを
この詩人は昭和16年12月、大戦勃発とともに徴用されジャワ作戦に従った。君命である。已むを得ない。文化部隊員として現地にあって「遠征前夜」以下13篇の詩を
書いた。これはやがて「海原にありて歌える」という詩集になって出版された。この詩はその詩集の1篇である。1説では遠征途次の南支那海でつくったともいわれている。
大木惇夫(1895~1977)。広島市天満町生まれ、一応功績を国が認めたということから記します。
1967年 紫綬褒章
1972年 勲4等旭日小綬章
戦争が苛烈になり、空襲が激しくなった昭和19年12月、急ぎの著作を完成させるため東京を発って、常磐線の浪江駅に降り立った。阿武隈山系に沿った漁村のとある
旅宿に滞在することになった。そこではしなくも病に倒れ、前後4カ月も療養生活を送らねばならなかった。そして翌年の3月にはさらに大堀村(現在は浪江町に合併されている)へ移りここで敗戦を迎えることになった。この間の作品をまとめたものが「山の消息」という詩集になっている。