半谷菊衛と福島毎日
民友は分裂して「福島毎日新聞」が創刊された。しかし人材の主流派はこちらに遍在した。明治の同名の新聞とは別。福島毎日は大正十四年から昭和六年にかけて発行されているのでほぼ大正から昭和初期をカバーする。この時代の相馬双葉地方をカバーしたのは小高町出身の半谷菊衛と浪江の石川正義という人物だ。
福島毎日の全期間は、小高の半谷菊衛の生涯にとってほぼ時代が重なる。半谷は三十八歳の若さで死去したので、ほとんど知られないが、かつて大正十一年の東北学生弁論大会で優勝者した相馬中学の秀才として知られた。地元の教員として勤めたほか、当時の青年らしく言論に政治活動に奔走していた。
昭和三年には(門馬清記記者の名とともに)福島毎日新聞の原町支局長として登場するのが半谷菊衛だ。
昭和五年五月の福島毎日新聞には「県下町村議選挙 小高町」の記事で町会議員候補者の一人として名前がみえる。
関係者に問い合わせたところ親戚の片野桃子氏からの手紙で「半谷菊衛氏は私の母方従妹の半谷イチの婿にあたり小高駅前で本屋を営んで居りました。菊衛氏が記者だった事は知りませんでした。体格のよく堂々としたなかなかの美男子だったと記憶して居りますが、思いの外早死でした」という。片野氏は原町では少数派の民政党で町長と県議を歴任した佐藤政蔵の娘にあたる。
相馬市の菊衛長男半谷隆氏は
「七つの時に死別した私にとっては懐かしいことばかりです。子供心にて思い出されることがいくつかあります。雲雀ヶ原に飛来した飛行機のことは勿論のこと、童話を聞かせる土曜学校の開校、夏休みの林間学校、永井柳太郎などを招いて、松川浦で開いた夏期大学、いまは知る人も少なく資料の数々も散逸してしまい残念です」と手記を寄せている。
昭和六年、福島毎日は民友と和解して合流し題号は消滅する。これに伴って半谷菊衛は民友新聞小高支局長となるが、惜しいかなこの年の十二月に死去した。最期の様子は民友浪江支局長の石川正義による追悼文「落葉賦」から知れる。この中で、石川は「共同で発行していた相双タイムスの事を案じながら(半谷が)細い声を出してタイムスは僕が帰るまで止めずに出していて呉れ給へ」という遺言を託したことを記す。
相双タイムスと「打破組」
「もともとこの小新聞は半谷君中心に始めて来たものだけに(僕がある関係上名義人にはなって居たが)半谷君を抜きにしては存続の理由すらも見出されなかった訳なのだ。君には全くすまないが僕はタイムスは続けるよナニ僕は大丈夫続け得ると信じているから、まあ君も根本的に癒し給へと力付けては見たものの、半谷君居ない後のタイムスは可成りの難経営に逢着していた」とある。
この「相双タイムス」「耕す声」の現物も現存している。大正デモクラシー青年たちの浜通りにおける言論活動の記念すべき史料である。
民政党の大物永井柳太郎の相双地方来訪については、石川正義の長男研三氏も覚えているという。
浜通り相馬地方は民報・松本孫右衛門の政友会の牙城だった。対抗勢力の民政党系の活動記録が極端に少ないのは、政治的理由によるのだ。
政友会政治は、鉄道敷設をちらつかせた利益誘導政治と、原敬を頂点とした金権選挙とで有名だが、大正の頃の民報には福島相馬間、福島原町間、田村・福島と浪江間、原町原釜間をつなぐ鉄道線の敷設という夢のようなビジョンに満ちてている。
普通選挙実現を訴えた尾崎民政党は都会型だったから、政友会政府にはもともと批判的。福島県内では六四の比率で、劣勢だった。
石川が半谷と出会ったのはのは大正十三年頃。その前半谷は、明大を半途にして郷里に帰り、小高文芸会などに関係し、その頃盛んに台頭していた雄弁熱で東北文芸協会主催の県下青年雄弁会に優勝し一躍名声を馳せていた。「英雄から凡人」という演題は正義はずっと覚えていた。
石川は村の一農夫として悶々していた頃なので、半谷の立場を羨ましくも感じていた。半谷が浪江小学校に転任して(その頃教員になっていた)浪江町の青年を総合して新青年団体北標会を始めた頃、石川は上京して同郷人の山田忠正氏の市民雑誌に入っていた。半谷の去った後に石川が震災で故郷に帰り、北標会に加入して、その頃浪江出身の大井不二夫等が中心になって出していた同人雑誌「北斗星」に盛んに左翼的議論を吠えていた。
大正十三年春、石川は青年農民同盟を組織して「耕す声」を出し、共産党事件に連座していた鈴木安蔵等と共同戦線を張り、講演などをやり回る頃は、今度は半谷が教職にある身を盛んにかこつていた。
半谷と石川との関係を最も密接にしたのは、昭和三年春の総選挙に中立で山田忠正氏を担ぎ出し盛んに既成政党打破を叫び廻った時からだ。
半谷と石川は、政友・民政両派から「打破派」と呼ばれて異端視されていた。つまりはジャーナリスト精神ゆえである。
石川は「その後僕は巧みに民政派に食い込み得たのに引き続いて半谷君はやはりどっちともシックリせず純新聞人として立ってきた。その後この「打破組」は全く去就様々となってしまった、けれど僕と半谷君とやはり以前の打破組に加わった新人坊主青田暁仙君の三人はいつも一緒に歩いてきた。打破組の蔵相を承はっていた馬場君などは可成り種々な道草を喰って漸く此頃民政党に戻って来た」と経過を記録する。
青田暁仙(僧侶)、大井不二夫(医師)、馬場ともに浪江の名家の主だった進歩的人物。
民友浪江支局の石川正義
石川正義は双葉郡室原村(現在の浪江町)に石川粂之助、キワの長男として明治三二年一一月一四日生まれる。粂之助は田舎政治家の例に漏れず、多大な借金があった。その整理のためにほとんどの財産を売り貧乏のどん底に陥った。向学心に燃えていた正義は進学どころの話ではなかった。高等科二年を卒業して、十九歳で同じ部落の高木家より嫁シモを迎えた。母を助け、幼い二人の弟のために三反百姓になった。三反百姓では生活が容易でなく、馬を使って葛尾あたりから木炭を買い、浪江の町に売りに行く仕事もやった。また、その合間に「中学講義録」で勉強し相当の学力をつけたらしい。徴兵検査の時の面接で試験官がその博識に感嘆したという。
双葉中学校の時の作文ノートの中に、正義の文章が七編ほど残っているが「卒業後の文章として余程の健筆なり。大町桂月以上になるも亦遠くはあるまじ」と評された。
当時青年の燃える心を発表する弁論大会が各地で催されたが、正義は苅野青年会代表として郡大会や浜三郡大会でも優勝。更に講談社発行の雑誌「雄弁」に論文を投稿し全国で一位になった。
大正一三年ころ、農村青年機関紙「耕す声」を発行した。当時二高の学生であった後の憲法学者、小高町出身の鈴木安蔵は室原の藁葺屋根の石川の家に来て農村問題について議論していた。
昭和の初期、浜三郡から衆議院選に立侯補し次点で惜敗した山田忠正の応援に奔走した。山田の門下生に有名な赤尾敏がいて一緒に選挙を応援したと言うから驚きである。赤尾敏夫人が山田忠正の娘ふみ、だ。
赤尾ふみの回想によると「父忠正は上京以前は相馬の殿様の御子息御相手として数年お邸に住み込みお勤めしたそうです。後年その御子息御結婚(尾崎氏嬢雪香さま)の際は招待されました。東京となってから、二十三歳で母八重と結婚。母に下宿をさせて、雑誌を経営。その頃、尾崎士郎、矢部周、奥むめお女史等が下宿に人り込み、父を囲み文談、政談の花を咲かせたのはよいが、間もなく下宿は赤字で閉口した。福島県より上京した人々が、その頃多かったので正義氏も大正十年以前にこられたと思います。大正十二年の関東大震災まで、正義氏はわが家で家族同様に暮し、氏は浅草オペラ等を好み、私と妹を連れてオペラ見物をしたこともありました。帰郷された後、父が福島県第三区より衆議院に立候補、次点で惜敗した時も、勿論正義氏は先頭に立ち、働いてくれたと聞きました。父と石川正義氏との関係は欲得全く抜きの人間と人間の親しい師弟関係でした。今日そう言う人間関係は殆んど見られない悪い世の中になったと思います。後日尾崎士郎の「人生劇場」に羽織・袴、山高帽の愉快な下宿屋の親爺として登場したのは若き日の父忠正の事であった」と、興味深い話を語る。
石川正義は苅野村議二期の後、読売新聞の記者をつとめ文才を存分に発揮。戦時中は平和貨物株式会杜の常務として生計を立てた。特に敬愛した先輩政治家は山田のほかに氏家清(津島)と釘本衛雄(幾世橋)など。昭和三十五年四月に浪江町長選に当選し、赤字再建団体の浪江町の再建に心血を注ぎ、浪江日立化成の誘致などに尽くし、二期つとめて引退。老後は郷土史の研究に専念。昭和三十年に北双史談会を創設、会長として、標葉郷土文献集をはじめ標葉氏の研究を深め、標葉氏を発見し世に紹介した。昭和四十三年「中世期における標葉氏の研究」を自費出版。四十四年には福島県史の「中世期の標葉・楢葉」の部を執筆。