佐藤政蔵関係史料
二上英朗 調査・編纂

 佐藤政蔵(さノ部 七〇)
 君は浜街道実業界の驍将として知らる、相馬郡原町の人、佐藤純一郎氏の男にして、明治十一年一月十九日を以て生る、厳君は戸長、郡会議員其他の名誉職に就き地方発展上に尽瘁して名望ありたり、君郷里高等小学校を卒業し、更に勉学を重ね、後農業に従事して家事を輔く、満二十歳に達するや、徴兵に合格して第二師団砲兵第二大隊に入り、三十七八年戦役には第一軍に従軍して満州各地に転戦す、後砲兵下士より転じて二等計手となり、三十九年戦役に依り勲七等旭日章を賜はる、凱旋帰郷の後、選ばれて原町会議員及原町耕地組合長の職にありて地方殖産産業の発展に力を致しつつあり、別に相馬電気取締役原町鉄工場専務取締役の要職に就きて其経営に任じつつある新進気鋭の実業家として地方実業界の重鎮として声望隆々たり、嘗て俗謡「はらのまち」を著し、同町勢の現状を紹介に力め同町の発展に資する所頗る大なり、夫人は能く内助に力を致し、三男一女あり、現に小学校在学中。(相馬郡原町本町一ノ一〇、電話四二)
 時事通信社 大正3年「福島県人名碌」

明治41年の「はらのまち」と昭和25年の「歌のはらのまち」

明治35年にいとこの佐藤徳助町長が「はらのまち」という唱歌を刊行した。これに刺激されたのか、政蔵さんもまた明治41年に「はらのまち」と題する小冊子を刊行し、得意の都都逸を発表した。
 この中に、ほぼすべての原町名物を織込んでいる、PRソングの濫觴である。

たとえば昭和二十五年の佐藤政蔵「歌のはらのまち」には、次のようにある。
「夜の森公園」
「山は白雪ふもとは霞 里は桜の花盛り
 花の盛りは短いものよ 心して吹け夜半の風
 春の夜の森おぽろにふけて 花のしぐれに月の傘
 おぼろ月夜のしぐれの花は ふられながらも心地よい
此の夜の森公園は明治三十三年時の町長佐藤徳助氏が当時官有地たりしを払下げ、町民の遊園地ならしめんとの苦心の賜である。先帝の御慶事記念として出来た公園である。色とりどりの山桜、吉野桜が苔むす稜に咲き乱れ、おぼろ月夜の眺めなどまた一としほの風情であります。酌み交す盃に花片の散り込むあたり、其のまま歌になって居ります。丘の上には佐藤徳助翁の銅像があったが大東亜戦争中供出して台丈けが残って居ります。復活の日はないものか。
 春はうれしや二人揃ふて夜の森公園
  おぼろ月夜の桜狩り
 風もないのに散る花は チョイト二人の袖の上」

(明治41年10月)
観艦旅行(一)ひげ郎

兄弟三人揃ふて、旅行を仕てみたいとは、年来の希望であった、それが一夕の戯談に花が咲いて、思ひがけなく決行する事となった、三人兄弟とは誰ぞ、一番兄は言はずかなのひげ郎で第二番目は灰声かくれもなきハイ郎弟は涛声文壇の美声家として知られたるモンケーである
三人は趣味趣向が一致して居る、だから話が合ふ、体力も一致して居る、だから運動も共にする、ひげとハイが角力を取ればハイに勝星多くハイとモンが角力とモンが勝ち、モントひげではひげが勝つと云ふことになって居る、ハイの最も得意とする処は水泳で一名河伯と称せられ、モンは優に百貫を挙げ牛と呼はる、而してひげは脛長くして駈歩に妙を得て居る、今日即ち十月十六日、尋常小学校の運動会があった、来賓の杓子に鞠を載せての競争には、ひげは一等賞を得て喝采を博したのである。
夜の二時発だから早やく寝よふと思ふて居ると、モンケーが行って来た、服を取りに行くの着るので夜もふけた、有明の月で停車場に向ふ靴の音が夜の静かさを破る、ハイ郎既に停車場に在り、定刻より少こし遅れて二時二十分発車、眠むい晩である。
伊出といふ処に新らしい停車場が出来るので測量中だとハイが云ふと、側の人が地盛中だと云ふ、ハイもさる者、測量して地盛中だと負け惜しみを云ふ、押しが強よいとひげが笑ふ、此処から久ノ浜の間にトンネルが幾個あると側の人が云ふ、ハイが首をひねって七ツだと答ふ、九ツだと争ふ、違った者が梨を買ふ事にしよふと云ふ、ハイ負けそふになり、ポンと手を拍ちアー小さいのが二つあったと降参しながらも負け惜しみを云ふ。
何処の駅で太陽が見えるだらふと云ふ、助川だと云ふてハイまた負けを取る
イヤハヤお気の毒、松と海と、旭との配合は何とも云ひぬながめである、
千波沼の水は涸れて、梅公園僅に、紅葉せるを見る、朝の風冷めたく身にしみて面白き話も出ず、
上野に着く、米艦隊が来ると言ふので西郷さんも水を浴びせられて御化粧中だ、動物園では猿の子の可愛らしいのが目につく、特にモンケーが見どれたとしやれを云ふ、団子坂は菊人形が大評判、また蕾が多い、夜の浅草なども色々面白ろい事はあるが目的が先なので一向、参り気が仕ない、疲れたので楽に寝た。

(二)
十八日午前小石川に河合氏を訪ね、豚で中食を馳走になり女子大学に案内され、それから三越を見た、日比谷公園は紅白の天幕を張って、歓迎の準備中、東京市内は頗る所負けず劣らず装飾を、こらしての歓迎ぶりは、いらいものである
午後七時に新橋を発し鶴見を過ぐれば—-
○艦隊のイルミネーション日米の艦隊三十余隻が、凡て火となって、湾内に浮かんだ壮観と云はふか偉観と云はふか、それに神奈川と横浜とで打ち揚げたる煙火は、絶間なく天空を彩って居る、走る窓から見まかくれに、ながめながら愈々横浜停車場に近づくに汽車に故障が出来て、止まるに場所もあらふに家並の陰で、煙火は音ばかり、列車の中では皆騒はぐ、そのもどかしい事ったら無かった、二十分以上またされた、
桟橋に出て見ると、各波止場もイルミネーションで飾りつけてある煙火とそれが水に写る水兵は其辺に上陸して天幕の歓迎を受けて居る、学生通訳が其処此処に世話を仕し居る、良い加減の先生達も見える、国旗や絹団扇や花傘や何やかや、御土産を一かかい位つつ買ってニコニコ帰って来る者もある、愛らしい顔の水兵服の水兵、黒んぼの水兵、ピカピカの将校等何れも物珍しげに見える、周布神奈川県知事の夜会のおよばれであらふ、将校連が馬車や腕車で引きもきらず、提灯行列は路の要して万歳を叫ぶ、アー夜の横浜、実に是が開港以来の快挙と云ふてもよいであらふ
三軒許り旅館を断られて四軒目で一行五人十畳の間を借り受けた、トメッー とガルリーも来る、ガルハーは通訳の為めに先きに来て居ったのである、原の町野の馬追の晩は、ごろ寝が五十銭で食わせて九十銭だと云ふ事であったが、さすが横浜は、片はたごで、一円二十戦である。

(第三信)
使い方も分からぬ物に珍らしまぎれに買ふた処は実に無邪気で面白ろい掃除がすんで日陰の処に、ゴロゴロ寝コロンで休んでるものもある、買ったハンカチーフなどを広ろげて何かささやいて喜んでるものもある、何しろ、一万六千噸と云ふ大艦であるから一寸見た位で何が何やら訳かった物ではない、迎いの船が来たので辞して帰った、此のコン子チカットに対したのが三笠で鼠色だけに堅たそふに見える、対馬海峡でバルチック艦隊を粉砕したと思ふと一種の満足を覚えざるを得ない
次にはガタンビシンと騒がしい音がして居る、何事かと見る食堂である、大方食事がすんで今食卓を片付ける処だ、皆畳んで天井にかける、仕かけになって居る、次に将校次に兵士の賄場次には兵器庫、此処には陸戦隊用の新式六連発銃や背嚢から剣其他何でも整ふて居る、一方には飲用水の樽の置場がある、肉類がある、馬鈴薯たまねぎがある、パンの倉庫もある、上甲板に登ると指揮官の室がある、そこには七ツ許り電話の装置がある、側にサーチライトがある、そこから甲板を見下ろすと、日本の商人が入込んで水兵が百四五十人そこ此処を取まいて、上陸用の靴を買ふ土産物は団扇や何かを買ふ菓子や果物、ハンカチーフあらゆる物を買ふて居る、一人の水兵が三寸許りの尺度用の物で先きが二又の刃のついた物を買って来て何する物だらふと問はれた、こっちも良く分からんので不得要領の答を仕た。
一人の青年が、三笠とコン子クチカットで何れが強いだらふと云ひ出した、戦って見なければ分かるまいと、一人の米人が答いたので一同大笑となった、戦争する事などは無論無い、そふして何れとも極まらぬ方が幸福だと云ふた者がある、一同は是に賛助した、単に是れ丈けの会話ではあるが米国大西洋艦隊が遥々東洋迄廻航し日本艦隊が是れを迎ひ、東京横浜の市民否、日本帝国臣民が挙って是れを歓迎して居る其間の消息を説明し得て余りあるではあるまいか。
観艦記は茲に筆とめ、日光山の奥に紅葉狩でも試むる事としょふ、その横路日記がうまく成立するや否や
(原文のまま。)

 注。明治四十三年に原町にも電気がやってきた。野馬追の夜景には夜ノ森公園が電飾された。おそらくは政蔵の建言があっただろう。観艦式での夜景の見事さの体験があったのではなかろうか。

 明治42年8月22日の福島民報に、当時の原町デサイプル教会員たちの姿がある。佐藤政蔵の子孫に伝わる原町基督教会関係の写真に、江川牧師、河村牧師、千葉牧師を含む当時の信者らの姿が写っている。政蔵の子供たちはみなデサイプルの洗礼を受け、教会学校に通っていたが太平洋戦争によってプロテスタント・キリスト教会はすべて日本基督教団に統合されたため、その他の信者らとともに日本基督教団原町教会に合流した。

「○原町青年音楽隊」
〔既報の如く相馬郡原町青年音楽会は去る十八日午後六時より原町座に於いて開会したるが場内場外は紅提灯を以て装飾し聴衆無慮五百余名会長佐藤政蔵氏喝采場裡に開会の辞を述べ終れば江川夫人のオルガンに連れて場に登れるは日曜学校の少年隊『これは私しの』のと無邪気なる遊戯続いて花の如き少女隊の合唱あり・・〕

ひげ郎と視察外記 明治43年

 明治43年3月2日より断続的に連載
(一)43.3.2.
(二)43.3.3.
(三)43.3.16.
(四)43.3.17.
 〔〇旅はうれしや話しするままに、列車は進む向ふ遥かにながむれば
   アレは会津の若松市チョイと見えます鶴ヶ城
(五)43.3.10.
(六)43.3.20.
(七)43.3.21.
 ほんにうれしや
  無事に県下の視察も了へて
   思ひがけない此の慰労
    飯坂げいしゅのとりなしは
     チョイと福島民報式

文人たちとの交流

 明治43年7月12日民報
〇相馬の野馬追(三)
雲雀野
 
ひげ郎さんは人夫を督励して馬場の溜水を抜き、凸凹を均らざして居る、僕は公園の芝草の上に立って・・・
(十日の夜原町にて巴生)

明治43年の野馬追

 政蔵は、民報記者の巴江(齋藤亀一郎)を原町に招待している。
〔〇原町実業団設宴 相馬郡原町実業家佐藤政蔵阿部源蔵小林茂助松永留之助門馬勇蔵(二上注。雄造)山村芳太郎滝沢壽郎小国忠助の諸氏は去十日の夜・・・久保和三郎志賀千代蔵両氏の出張を歓迎して岩城屋に招待して懇親会を開きたるが佐原(二上注。佐藤)徳助氏挨拶を述べ・・・〕

明治43年11月
ハイハイモシモシ電話開通

〔阿部市助佐藤政蔵氏尽力して〕
とある。

明治43年 上洛野馬追

 〔而して右出馬方に就いては佐藤徳助、半谷清壽、藤崎重行、遠藤六之助、佐藤政蔵其の他の諸氏等専ら事に当りて奔走し四月二日〕

ここに佐藤ひげ郎君の「嬉しや節」を紹介する
〔都三月、桜咲いた咲いた、九段の社、相馬騎馬武者二百余騎、旗はヒラヒラ花が散る、チョイト鎧の上〕

明治44年7月11日
△・・・野馬追には馬鹿に熱心して野馬追町長と迄云はれた佐藤徳助氏が病褥にあるのは実に惜しい事だ。曰く佐藤政蔵、遠藤六郎、松岡重盛、野崎亀喜、堀内秀之進等で故人となった今村秀芳氏は玄徳ではないが、今でも其人の名を呼べば三軍の士気忽ち賑ふとした概があった相だ

大正2年2月15日民報
 ○原町より(第三信)
   十一日夜病床にて 杜雨生
○堀川一正氏を始め佐藤ひげ郎氏など大に感ずる所ありて断然禁酒を公告声言したる事は喜ぶ可き傾向と申すべく候

大正3年福島日日
6.24.問題の経過(上)佐藤髭郎 6.25.問題の経過(下)

注。佐藤徳助が野馬追祭の日程を変更すべしとの意見を吐いたことに神社側からの猛烈な反対が出たため、ひげ郎が徳助を弁護して論じたもの。

大正3.9.24.
祝全国自転車競技大会
福島日日新聞社主催

木幡モスリン工場
大橋鉄工場
植菊鉄工場
原町鉄工場

大正3.10.10.福島日日
へなぶり日記 原町ひげ僧正

注。大正4年、民報は桑村という記者が野馬追いを見物に来た。
「雨の相馬」(4)民報 大正5年7月24日
岡和田と佐藤政蔵について言及がある。

私立草津温泉の一騎亭に行いた、岡和田君も髭さんも一緒で、夫れに松浦君も加はった。

注。また別紙同業の後藤迫洲もこの時の紀行に書いている。

浜路の旅 迫洲生
 三
 群衆と騒音の中を、同業桑村君と半谷馬城君と、原町の有志数名の案内に、雲雀ヶ原へと向ふ、青草の匂ひ高い原を、汗と雨に濡れ乍ら群衆は永く続いた。知事が反返る可く用意された天幕休憩所へと入って同業子ズラリと知事の側に腰を据える。唯観れば、緑野茫々、数千の騎馬武者は、旗印を青嵐に吹かせ乍ら勇ましく縦横に疾駆する。壮観な旗取りの争奪戦を観て午後三時雲雀ヶ原を辞した。
 有志、佐藤政蔵、岡和田甫両名其他が、途中、付近の旗亭に請じて呉れる。

大正5年7月 雑誌「海岸」広告
原町鉄工場

大正7年 明仁東宮の野馬追見物

福島民報 大正10年
3.28. 原町公設競馬場を新設する計画
民報10.4.27.鹿島憲政演説 原町議選挙 鹿島座で政蔵ら
民報10.5.7.理想選挙 佐藤政蔵
5.21 原町安全候補
5.24. 原町安全圏内の人
民報10.5.30. 中村理想選挙破壊

福島日日大正10年
11.17.原町双輪競技 優勝佐藤諭 
12.15.歳末の原の町 原町クリスマス 薫陶園美談

大正12年福島新聞
8.27 盆の郡山に人波 活動写真や商店は景気 駅の乗降数
 相双政友発会式 林庄太郎
9.28 相馬の投票箱に疑問
9.28 県会 相馬区第二区
当選鈴木重郎治 千四百七十八票(政再)
落選佐藤政蔵  千五十三票 (憲二)

大正14年より昭和2年まで原町長をつとめる。

昭和元年 朝日
12.17. 原町を中心に実科他女計画

福島毎日 昭和2年1.19.原町公認競馬場設置許可さる 資本金十万円の株式会社を組織して来四月頃開始
朝日2.2.9.
原町排水工事 着々と進む
相馬郡原町における空前の大事業である市街貫通の廃水工事は旧年来着々工事を進めてゐたがこの程西原線五百間、北原線八百間西原道路改修に百五十間の基礎工事完成し軌道添の一線のみが次年度に残されることになつたがこの工事に県からは三千二百五十円の補助があるはず

福島毎日新聞 昭和2年
1.18.福島相馬間鉄道問題に就て宮城県側と協議
1.19.原町公認競馬場設置許可さる 資本金十万円の株式会社を組織して来四月頃開始

4.2.原町行き 虎峰 ひげ郎に言及あり

5.19.夕 正調相馬節をレコードに
6.25.天下の壮観相馬野馬追
6.30.仙鉄局の新しい試み 野馬追祭を絵巻物にして
7.12.野馬追 広告
7.15.野馬追 第二日目の盛況 活動写真隊も数組みえた

民報 2.8.25.相馬民政候補 佐藤政蔵氏を推薦 県議会議員選挙に
4.28. 原町実科高女 新築成る 民報
9.17. 太田秋之助氏言論戦開始 民報

朝日 2.8.27. 政蔵 24日原ノ町長を辞職して出馬を決した
8.31. 町長をねらふ 原町政友派が
佐藤氏辞職の後を

朝日9.28. 政蔵次点 3295 
大田秋の助4657

福島毎日
8.27. 佐藤町長辞表を提出して立候補 8.27.民政党幹事会に於て 佐藤氏は快諾
9.2.原町政派の悪辣手段 佐藤候補の
9.4.大失敗に終わった原町民大会
9.14.夕 佐藤政蔵候補ポスター破られる 原町署選挙事務打ち合わせ
9.24.夕 佐藤候補の奮闘 連日到る処に言論戦 同上が然として来る
 原町長は佐藤氏に再選か
10.15.夕 副柱竣工
10.18.近づいた原町競馬大会 
10.23.夕 同 
10.27.夕 雲雀ヶ原の競馬近づく
11.1.原町競馬盛況 11.2.原町競馬最終日 

昭和2年朝日
11.19. 廿日決戦投票
 原町町長選挙
  波乱を予想
既報相馬郡原町町長選挙については民政側はあくまで佐藤政蔵氏を推薦すべく結束したが中立の一角 ら商銀原町支店長志賀隆明氏を擁立、政友派また同氏を推薦すべ 形勢にあり町長選挙会は相当波 あるものと見られるが同町区長 部の名で里政蔵氏を町長に推 すべく建白書を町会に提出し十 日一同連べい辞職した

昭和3年福島毎日
4.16.
原町紀念事業
古趾映画会組織
相馬郡原町にては今秋の御大典記念事業の一環として町会議員佐藤貫了、木幡清、同忠太、小林勉、梅田武氏発起となり映画会を組織し著名なる名所旧跡、会社銀行、学校、神社仏閣、商店、町内枢要の地其他一般の希望撮影をなし之を町役場に供ひ記念すべく準備中であるが既に申込をなせる者もあると

昭和4年民報
2.24.甲陽軍鑑映画

浪人時代に苦肉の策
企画製作はじめた野馬追騎馬人形
注。昭和2年の落選により浪人。妻の兄にあたる木幡清が民友の原町支局長であったので、野馬追人形の製造販売を宣伝する記事が毎年掲載された。

昭和4年
郷土色豊かな 野馬追武者人形
今年のお祭りから売出し
 佐藤政蔵氏の苦心

多年郷土芸術方面に苦心研究を重ねていた原町本町佐藤政蔵氏は
天下の偉観、野馬追に因める武者人形を製造すべく計画樹て粘土を以て試験した結果は頗る好成績なる為め早速原形を作り一家揃つて製造に着手したが、非常に結果よく此度は大々的設備を以て製造に努め各地へ輸送し郷土の名を拡める由であるが、鎧甲冑などは自然色を採色し騎馬には馬具一切装飾を施した美麗なるもので野馬追見物帰りの土産としては最も適当であり、是に依つて郷土紹介の意味を含めるものであるとなし町民一般から非常に期待をせ寄られてゐるが、東京某問屋に於ても一手に引受販売なす旨の通知があつた
(昭和4年6月24日民友)

民報4.6.27. 原町競馬席の観覧場改築
民報9.3.スタンド改築
民報11.15.霊山史実映画

民友 昭和5年2.14. 原町の民政党分裂
民報3.21.「霊山」映画公開
民報4.3. 「霊山」原町座で四五日
民報 昭和5年5月4日
前原町々長の音頭で盆踊り
 観衆の度肝を抜いた
  相馬農蚕校運動会
最後に大櫓を取り巻いて総員盆踊り之が音頭取りは前原町々長佐藤政蔵君

民友5.6.28.政蔵 野馬追人形

民友5年
野馬追ひ名物
 騎馬武者人形
  大工場を設けて
    愈愈製造に着手
原町佐藤政蔵氏は郷土の誇り野馬追に因んだ騎馬武者人形をして地方物産たらしめて見たいとの希望から数年間研究を重ね昨年漸く原形が出来あがったので是が製造に着手

県議会における政蔵

注。昭和6年から県会議員に当選、就任。相馬が2人区となったため。54才。

民友6 9.16. 写真
佐藤政蔵氏
 愈々出馬に決定
   直に後任手続きを執る
    期待さるる猛進

民友6.9.18夕 写真
 佐藤政蔵氏
  祈願をこめて
   愈々真剣の活躍
     断然理想選挙を標榜し
三名の定員に五名の候補が乱立し苦闘を続ける中に断然理想選挙を標榜して立った、相馬郡の民政党公認の佐藤政蔵氏は十五日立候補届を了すると同時に諸般の準備を整ひ直に実戦に取りかかったが多少立遅れの気味あり二回の落選が同情となって何でも彼でも今度こそは同氏を当選させなければならんと大田村の相馬妙見神社に祈願をなし四尺の神札を安置し真剣になって活躍する様涙ぐましいまでの情景を呈してゐる(写真は胡麻札と佐藤候補)

9.27. 佐藤政蔵氏 最高得票
12.6.県通常会 政蔵氏の質問

 佐藤政蔵君  相馬中学校に講堂建築の急実科高等女学校の補助を一層増額する意思はないか史蹟名勝記念物保存費を計上してゐるが何の程度まで保存してゐるか相馬野馬追祭を保存する意思はないか
野馬追祭の淵源より説き起し
野馬追祭に出馬する八百騎一千騎の馬具は年々消耗してゐる、国民思想の善導上にも効果大なるものと思ふ
その他一項につきユーモアを織込み能弁をふるって質す(民友12.11)

昭和7年 8.16.政蔵 野馬追人形 民友
(別掲・写真)

民友10.6.原町競馬 
10.15.原町競馬十五日から
民友12.27.原町競馬日割り決定

民友8.1.13.政蔵 多門将軍の歌
 佐藤町長の銅像
8.3.24.政蔵 ヒゲローヘナブリ
8.12.25. 奉祝歌 佐藤政蔵

民友9.11.6.娘身売りを守れ
11.16.売られし乙女 今年すでに1500名 保安課
民友9年12月22日
マデン夫妻から佐藤政蔵へ

東北凶作と原町
昭和9年の東北凶作とマデン夫人の義金

 昭和6年に原町に婦人矯正会が結成され翌7年には石川組製糸工場と原町紡織工場に日曜学校分校が設置された。
 昭和8年の冷害は米の主産地東北地方に甚大な被害をもたらした。収穫のない困窮農家から娘たちが遊郭という苦海に身売りされて社会問題となったのはこの頃である。
 飲酒の害悪、人身売買、都会の不景気。そんな世相の中で農村は冷害と貧困とに見舞われていた。かつて仙台など東北に教会を建設し、大阪に移って独立して伝道活動を続けるマデン夫人は、佐藤政蔵へ手紙を書いて小為替を送っている。東北農民の窮状を知って、彼女の心は東北の信徒のもとに飛んだのだろう。パンに窮している時代には、なおさら精神の糧が必要だった。

宗教的人類愛が生んだ美挙
大阪のマデン夫人から佐藤政蔵県議へ義金
最近兎もすれば荒み勝ちな国際問題の話題を生む際、荒寥たる凶作の原町に宗教的人類愛がきざんだ美はしい花を一ツ
▽一▽
廿一日開会の県会議事堂民政派議員控室の相馬郡選出佐藤政蔵氏宛英文のレターと共に十円の小為替が届けられたのは大阪市北区天満橋北詰の米人宣教師マデン夫人で、左記の手紙によっても示されるやうに堅く結ばれた友情と深い信頼とが崇高な宗教心の上にあらはれてゐて純朴な佐藤さんをただ感激にむせばしめてゐた
そもそもマデン氏夫妻と佐藤さんとの交はりは明治末期から始まる、同夫妻は明治二十八年異国の土になる決意を堅めて来朝した、そして仙台市に教会を設立して伝道に当たっていた同四十三年ごろ、一兵士であった佐藤さんが暇あるごとに教会の扉を叩いては熱心に説教を傾聴してキリスト教への信仰が深まるにつけ、親交も深まり大正九年同夫妻が大阪に旅立った現在に至るその間も四季を通じて音信を絶へたことはなかったもので、すでに日本の土となることを希ってゐる程の夫妻は東北の凶作に悩む人々の事も決して異国人の出来事とは考へられないだらうし、夫君が商業学校に教鞭をとる薄給の内からさいた十円も正に貧者の一燈程の輝きをもつもので、どう云ふ方面に使用されますかと問へば佐藤さんは感激しつつ
教会関係のもの故帰郷の際教会の人々と相談してマデン氏の意志を生かす様にするつもりだと語った(以下手紙全文)

親愛なる佐藤様
新聞は東地地方の哀れな飢餓を報導して居ります。私共は非常に悲しんでます。憂ふべき時に対して私共の友達のために奮起して助けることを神様に祈らねばなりません。然しあなたが御存知の通り只今私達はそう沢山生活上救ふことが出来ませんが少しくは助けることが出来ます何うぞあなたが最も必要と思ひなさることに十円を用ひて下さいささやかな教会でもお手紙に答へるために仙台宛にいくらか送りませう。一週間前に須藤さんが大阪におらるるお嬢さんに逢へに来られました。彼女は話しました、あなたの御手紙にあるように救はねばならぬ多くの人々の事を私に話しました。毎日私は何にか致したいと考へてましたが、そして私のお金のほんの少しを送ることが出来ました佐藤さんが救済せねばならぬ人々の事をよく知って居らるると彼女が言ってましたからクリスチャンの方々にも何うぞよろしく。主人はしばらくアメリカに居ります。健康のためと、伝道と、子供達に逢ふために行く必要があったのでした。すぐ帰って参ります、それで私からお手紙を差し上げた次第です。

 佐藤政蔵の娘で大正二年生まれの片野桃子は、この記事とマデン婦人の手紙について「私が物心ついてからのうろ覚えのことなども真相もよく分かり、父がどんな経緯で入信したかもよく分かりました。私達兄妹もずっと日曜学校に行くのが当然と思って、千葉先生、多田先生、野口先生と….昭和六年頃までは教会とつながって居りましたが牧師不在の様になり…結婚、戦争と、つい教会から離れてしまいましたが、それまでは我が家の座敷でよく千葉先生や仙台の須藤先生を囲んで集会をして居りました。父の信仰は型よりも心(魂)であった様で、仕事がらといふよりはお酒も好きでよく頂きましたが、機嫌のよい酒で、教会のきまりはきびしすぎた様でざんげを繰り返して居りましたが、決して人を疑はず、恨まず、そしらず、差別することなく一生を終りました。子供たちもしらずしらずその精神で育てられ、貧乏しても気にせず、空の鳥を見よ、野の花を見よ、明日をおもいわずらうな、の生き方で一生を終わりそうです。この精神を子や孫に伝えることは出来ないかも知れません、世の中があまりにも物質主義になり、宗教でも科学でも止められない様な無気力を感じます。
 議員時代にマデン夫人と神父さんとお子さまと揃った写真もうちの写真箱にあり、よく見た覚えがあります。」
 という回想を筆者に寄せている。

民友10.3.10. 日露の役従軍 政蔵氏 歌日記  最初期の肖像写真(別掲)

 日露戦争の従軍記である(別掲)

民友10.1.21. 政蔵 歌行脚
10.1.29. 政蔵 歌行脚 小高

 この頃、「歌行脚」の連載が民友紙上に行われる。のち昭和13年になってから自費出版した。あぶくま新報に詳述(別掲)

昭和10年 福島民報
10.20.白石中村間自動車の歌

宇田道夫と雲雀ヶ原からの
相馬野馬追HK実況放送

昭和10年民友
6.17. 陣太鼓も勇ましく
 騎馬武者一千
       雲雀ヶ原の懸引き
 野馬追をHKから放送
相馬野馬追実況のラヂオ放送は年来の宿題となつてるのであるが本年こそは相馬出身仙台商工副会頭西内長治氏の斡旋でこれに要する約二千円の費用も放送局支弁の上同局在勤の原町出身アナウンサー宇田道夫法学士出張の段取りまで仙台放送局関係者によつて逓信局その他にも交渉される模様だがこれが実現の暁は武田流の軍法で法螺 陣太鼓合図に甲冑騎馬武者一千余騎が雲雀ヶ原頭の駆引を全国に放送されるだけ大なる期待がかけられてゐる

昭和11年
4.13. 原町実科高女創立十周年記念10日

6.21. 技術難を克服 野馬追実況放送90パーセント
7.1. 野馬追放送愈よ本極まり 雲雀ヶ原実況
7.12. HKを通じて世界に放送される
原町短波 
佐藤政蔵に感謝、野馬追放送史上の快挙

 宇田道夫を通してNHKの実況放送を実現。拙著「遥かなり雲雀ヶ原」に詳述。

昭和12年朝日
へなぶりで見舞
上海方面の戦闘で名誉の戦傷を負ひ帰還した相馬農蚕学校並に双葉中学校教官の山口武臣部隊長に対し原町の前県議佐藤政蔵氏は得意のへなぶりで左の如く見舞句を送った
 山口や鰓撃たれつつ奮戦すまこと武臣すまこと武臣の鑑なりけり

実科女学校を 農蚕女子部に
原町町町会協議

昭和13年2月8日 南相たより 福島民報宮城版
大田村西方治翁の銅像除幕式に参列した原町の「ひげ郎」事佐藤政蔵氏は謹厳そのものの如き祝詞を固くなって述べていたが最後のドタン場でいよいよ本来の本音を吐いて朗吟、姓名詠み込のヘナブリ一首
西なれどひがし北から南まで
方治なれども圓く治めし

娘である桃子さんについての消息もある。彼らは原町基督教会のメンバーである。短波子が教会に近い人物である理由は、愛情をこめて自分の記事にこうした人々を取り上げていることからも分かる。

 原町短波 昭和13年12月8日
 銃後の家庭に在っては洋裁は婦人の常識であらねばならぬ-といふモットーで原町太助町文化通りの、片野歯科医院内に洋裁研究所が開設された、主任は片野桃子さん、助手は佐藤桃代さんで修業一ケ年、女学校制服、婦人子供服や廃物利用改造服をも教授するといふ、知れ!今や時代は軽快で経済的な洋装が一般家庭の寵児であることを

昭和15年12月15日 新版 隣組の唄 ひげ郎会長 びわで吟遊
原町元県議「ひげ郎」こと佐藤政蔵氏はさきに戦死者の武勲をたたへた琵琶 つくって感謝されたがこんど
遠い親戚あてにはならぬ
いざといふ時きや隣組
顔もなじめば心もなごむ
いつも常会心待ち
といふ相馬二へん返しに隣組がなぜ必要かとの意味を盛って作詞しこれを同じく同町の町内会長で理髪業を営み琵琶を吟ずる渡辺楽声さんが琵琶に作曲、両氏協議の結果近く自分の隣組 らこれを吟じて披露し、順次同町百余の隣組常会にサービスし大政翼賛の推進力とならうといふのである
25.4. 菅山鷲造の帰郷 原町教会写真
26.1.20.母子援護懇談会 片野百子

32.3.8. 唄のふるさと原の町小唄 
倉若春生作曲 菅原都々子歌 昭和26年3月 原町小唄のレコードが発売された。

昭和33年 政蔵死去

47.1.13. 福島民報
“歴史を語る”歌行脚集
 故佐藤さん出版、見つかる

 原町市栄町三ノ六、無職佐藤純さん(六七)方で、亡父の政蔵さんが自費出版した「歌行脚集」がみつかり、政蔵さんを知る人たちの間で回し読みが続いている。発見された「歌行脚集」は三百四十三ページ。
 みつかった同書は、ワラ半紙の四・六判、六百余首がおさめられ定価は一円五十銭。
 「歌行脚集」は昭和八年九月県参事として朝鮮、満州に派遣されたときの「秋風もはや福島をあとにして鮮、満感無量思い出の旅」から稿を起し、当時政界で活躍した太田秋之助、加藤宗平、大内一郎、大超軍三、原孝吉、金沢治右衛門の各氏とともに、政党幹部、県政記者会員らに見送られて出発、十月初旬に帰国するまでの視察記をはじめ、浜通り、県北、県南、会津の各方部の各市町村をめぐり、政状や社会、文化面などの動き、交友関係などが書かれている。
 発見者は佐藤純さん。

あぶくま新報関係記事

佐藤政蔵元原町町長の歌行脚 277 平成4.12.28. 青田秀子所蔵
佐藤政蔵さん騎馬人形が復活 192 8.18.
佐藤政蔵さんの漫画随筆が復刻 
佐藤政蔵さんの「相馬の民謡 唄のはらのまち」発見 平成3.7.18.

 佐藤政蔵は昭和9年に発行した「随筆漫画呑気のひげ郎」というパンフレットで、前年昭和8年の原町町会議員選挙を大いにヘナぷっている。

石川保次郎君は工場を背景に安全。
◎堅いはずだよ石川投票そこで当選保次郎

 などと歌われた。
 原町はひどい買収選挙の町だった。

将兵慰問 歌の便り

 さらに、同年10月に「将兵慰問 歌の便り」という冊子を発行している。昭和9年の「漫画随筆のん気のひげ郎」からたてつづけの3冊目。
 同書は非売品。奥付には次のとおりの諸件が記している。
 昭和十三年十月二十日印刷
 昭和十三年十月二十五日発行
 著作兼発行者 佐藤政蔵 福島県相馬郡原町南新田字町二〇番地
 印刷人 小林勉 福島県相馬郡原町南新田字町二九番地
 印刷所 高田印刷舎 福島県相馬郡原町南新田字大橋本四番地
 明治37~38年の日露戦争に従軍した政蔵は、日本の威容を示す聖戦をすなおに信じて、郷党の後輩たちの出兵に心を寄せ、異郷中国の地で戦う将兵を慰問せざるべからずと思い、本書を発行する。
 冒頭に掲げられているのは「祝 漢口陥落の歌」という政蔵自作の歌。
 「進軍の歌」(雲わきあがるの曲で歌ふ)という指示があり、いわば替え歌である。
 ひげ郎謹製
一、 支那チョウヨウの聖戦に 我が皇軍のゆく処
北支に中支はた南支 向ふ処に敵はなく
二、 最後の牙城とたのみたる 漢口城を陥(おとしい)れ
日本晴れの空高く 見よひるがへる日章旗
三、 海陸軍併せつつ 空軍これに呼応して
殲滅戦を画(えが)きつつ 四百余州を席巻す
四、 東洋平和の礎に 王土楽土築くまで
皇軍万歳万々歳 日本帝国万々歳

 弱者と貧者の立場にあったキリスト教に帰依したはずの政蔵が、このような無邪気なほどに軍国主義的な国威発揚の作詞に熱中している姿は、当時の平均的日本人としての限界である。
 政蔵は序文にいう。
「昨年七月、日支事変勃発以来、一年有四ヶ月、極寒酷暑を物ともせず、北支に、南支に、中支に、暴支チョウヨウの軍を進め、困苦と欠乏とに堪えつつ、良く其の戦果を収め、南支爆撃に、張孤峰事件に、皇軍の威武を遺憾なく発揮せられ、蒋政権最後の拠点武漢の攻略も目睫の間にあり、而かも聖戦の目的達成には、尚幾多の難関の横たはるあり、従って第一線将兵の益々健康と武運長久を祈ると同時に傷痍軍人に対しては御快復を祈り、感謝の微意を表す可く、国体並に有志のご協力により此の小冊子を刷り、御慰問の印となす。
 護国の英霊に対しては、只管御冥福を祈る。
 希(ねがわ)くは遺家族の皆様の上に祝福あれ。
 昭和十三年十月 編者ひげ郎謹白」

 佐藤政蔵のキリスト教信仰

 昭和9年の民友の記事に、政蔵と宣教師マデン氏夫妻との関係に言及した部分がある。

そもそもマデン氏夫妻と佐藤さんとの交はりは明治末期から始まる、同夫妻は明治二十八年異国の土になる決意を堅めて来朝した、そして仙台市に教会を設立して伝道に当たっていた同四十三年ごろ、一兵士であった佐藤さんが暇あるごとに教会の扉を叩いては熱心に説教を傾聴してキリスト教への信仰が深まるにつけ、

 明治43年ごろ、といえば、原町の商業界での活躍を示す「視察旅行」の連載記事を書いたり、野馬追の見物に来た新聞記者たちを得意になって案内していた年である。仙台でマデン氏の説教を聞いていた、というのが事実にしても「一兵士として」という時期はもっと以前でなければならないだろう。
 通い始めたのが、一兵士であったころ、という意味なのかも知れない。相馬地方の青年が徴兵されて入営したのは、当時は仙台に第二師団というのが一般的であった。
 長兄の保助が、兵士時代にさかんにキリスト教会を訪問している事情を考えれば、兵士として都会仙台にあった時期に、この好機を利用して文明の先端に触れてマデン宣教師のキリスト教感化を受けたというのが自然であろう。
 政蔵にとって、明治末期は宗教的な季節でもあった。
 日本一致教会から日本基督教会となる原町教会を出奔して、デサイプル派の原町基督教会に移った、というのが、まさに明治末期のこと。
 二つの教会が、ほぼ同時的に原町に発生しており、熾烈な競争関係にあったこと。政蔵がはじめは日本基督教会のメンバーで、しかるのちにライバル関係にある原町基督教会に移転したことを思えば、継続して仙台に通いながらマデン宣教師を慕って、その薫陶を受けていたと考えられる。
 一時は、自宅二階を教会の集会場所にして「牧師のまねごと」までしていたという。事実、アメリカの伝道史料にも、教会の移転についての言及がある。政蔵の、デサイプル教会への熱は、きわめて熱いものがあった、とせねばならない。

 地元の郷土史家による「笹舟郷土誌」では〔原町基督教会(原町字下町)会堂五間六間 敷地 百三十六坪 寄付地 信徒大正十三年百二十八
 明治二十七年頃には字伊手内に在、平時求導者四十人、牧師建部猪吉。明治三十二年頃には字西原門馬文助宅に在、信者は六名。同三十五年より三十七年までは字町佐藤政蔵宅、同四十年四月教会堂建設致しました。歴代牧師江川七郎自三十八年至三十九年 建部猪吉(至四十一年)江川七郎(再任、至大正四年)河村保次郎(自大正四年大正七年死亡)菊池次郎(自七年至八年)千葉儀一(大正九年六月任)〕
 とある。

明治35年から37年まで政蔵が、原町基督教会として自宅を使わせていた時期には、まだ日本基督教会のほうの信者であったろうから、この自宅開放の時期に交流を深めてデサイプル教会への傾斜があり、その結果として「移転」を決意した、という流れになる。
 成瀬高氏の七十五年略史では、明治三十八、九年頃に〔デサイプル派の宣教師が原町に伝道を開始して、新たに下町キリスト教会を設立し、佐藤政蔵以下数名の信徒は原町講義所を脱会してこれに入会した〕と記す。他派ゆえに詳しくなかったのであろう。デサイプルの原町での伝道開始が明治38・39年頃であるという記述ではあるが、あくまでこれは成瀬氏にとっての外部からの印象としての記述である。借家での見えない教会から、会堂建設以後にようやく「見える教会」になったのだろう。
 蘇ったデサイプルス教会史
 デサイプル派の教会すなわち、下町教会とも呼ばれた原町基督教会の沿革については秋山操編著「基督教会(デサイプルス)史」に詳述されている。この書は昭和44年に刊行された。秋山氏は1991年に昇天。
 デサイプルスとは何か? 一九世紀にアメリカ西部に起こったプロテスタントの一派である。原始キリスト教会に復帰することにより、教会の再統一と聖書に基づく信仰の復帰を志したものといわれる。それは聖書のみを信仰の基準とし、日曜毎に聖餐を守り、浸礼を固守する。そして信徒と教職を区別しない。教育に熱心という特色をもち、アメリカその他各地に学校を設立している。
 ディサイプルス派の日本伝道は、C・E・ガルスト宣教師による秋田県下の伝道が最初であった。なぜ、秋田の地が選ばれたかというと、横浜や東京などの先進地では、既に他派の宣教師による活動が活発に行われており、わさわざ当時としては辺境ともいえる東北の秋田が選ばれたのである。彼は一八八三年(明冶二八)に来日し、翌年春まで横浜にて日本語を勉強し、しかるのち秋田に赴いた。こうして日本最初の伝道がなされた。このプロテスタント米人宣教師は、わが国における近代的社会運動の黎明期に土地単税論を提唱し、その普及、宣伝に尽力し、自ら単税太郎と名のった。彼ほど熱心な隣人愛をもって労働者に接し、彼らに深く哀悼された宣教師はいない、といわれる。彼は一八九八年、四十五歳のとき、感冒にかかり築地の自宅にて永眠。墓は東京の青山墓地にある。彼の秋田での伝道開始以来、茨城・福島・宮城・岩手の諸地域を、米人ながらもわらじばきで伝道して歩いたという。
 宣教師マデン夫妻
 
 宣教師マデン夫妻 在任期間(1895~1915)
 日本伝道が不振をかこっている明冶二八年マデン夫妻が新たに赴任した。
Milton B. Maddenは(一八九五~一九一五在任)、カンザス州トベカ商科大学卒業後、鉄道会社に勤めていたが、宣教師を志してベサニー大学に入学(夫人も同じ会社から同じ大学に入学)、結婚後それぞれの教会のリビングリンクスとして明冶二九年来日。しばらく東京で日本語を勉強した後、明治三〇年五月、福島地区最初の教会を、翌明治三一年八月仙台に移って仙台教会を興した。同時『聖書之道』と『ハービンジャー』誌の編集を担当し、また巡回伝道者として全国を伝道して回った。原町教会や米沢教会の創立と発展も彼の援助に負うところが多かった。明冶四四年に大阪に転任し、夫人は天王寺、木津川両幼稚園を開設した。夫人は文筆に秀で日本に関する著書が若干ある。大正四年に夫妻はわがミッションを離れ、大阪に独立の旭ミッションをつくった。(デ史p53)

  日本宣教二五周年にガルスト記念奨学金制度が設けられたが、その資金捻出のため、ガルスト夫人編の『大日本における基督教会』が一九〇九二年(明冶四二)に出版されている。大正二年には、これに補正が加えられている。(デ史P16)
 この本は写真入りのりっぱなもので、千二百ドルの基金をえるのが目的だった。(デ史P120)
 のちに昭和9年頃のマデン夫人と佐藤政蔵との交流については新聞記事になった消息があるので別記する。

 大正時代の原町教会の信徒たち

 〔信徒数届書
一信徒総数三九名 内男十九人 女二十人
 但シ大正五年十二月三十一日現在数也
右之通相違無之候也
 大正六年一月廿九日
 相馬郡原町
 原町基督教会牧師
  河村洋次郎
 福島県知事川崎卓吉殿〕

つまり、原町日本基督教会と、もう一つのデサイプル原町基督教会である。

 原町初の幼稚園

 大正七年発行の岡和田甫編「相馬原町案内」には、短期間ではあったが原町で最初に経営された幼稚園と日本基督教会について次のような紹介がある。
 〔▲原町幼稚園及日本基督教会 幸町に在り、教会は明治三十五年二月二十日の開設にして現在信者二千余名あり、大正七年一月より幼稚園を兼設す、現在児童五十余名月謝三十銭、児童教育に貢献す、近く町費補助園となる筈、現在牧師室井長治氏、保母佐藤春衛嬢熱心事に当る。〕
 原町初の幼稚園は七年から九年までの三年間つづいた。小林栄一、片野桃子らは第一回の幼稚園児。
 信者二千余名、というのは二十余名の誤植だろうが、三十五年開設というのも外部から教会を見ての記述ゆえの誤謬だろう。
 佐藤政蔵の子孫には、大正時代の原町幼稚園の記念写真が三枚残されている。これが原町初の幼稚園である。
 のちには原町基督教会もまた幼稚園を設備したことがあるが、これは昭和になってからのことである。一般に知られていない。
 注。昭和43年刊の原町市史は、日本基督教会(幸町教会)と原町基督教会(下町教会)との区別がつかずに、原町基督教会が幼稚園を経営した、と混乱した記述をなしているが、これは誤り。大正に幼稚園を経営したのは日本基督教会の方である。

原町初の幼稚園
 成瀬稿65周年史。〔下町キリスト教会には千葉儀一氏が着任、大正六年(一九一八年)には佐藤あきの婦人伝道師が原町教会に着任、次いで青年牧師室井長治氏が、東北学院神学部を卒業して着任し、教勢の挽回に努めることに成り、原町のキリスト教界にも活気を呈するに至った。室井牧師は佐藤あきの姉と共に幼児教育の必要を痛感して原町教会内に原町最初の幼稚園を開設し、約五○名の園児を収容して、幼児教育に当たった。これは原町市に於ける幼児教育の草分けであって、町民の期待するところであったが室井牧師は約二年間で他に転じ、佐藤あきの伝道師も原町を去ったので、幼稚園も閉鎖の止むなきに至ったことは惜しんでもあまりあることであった。そして教会は再び無牧時代に入り、教会堂は日々荒廃し、教勢は再び低下して行ったが、不思議なことには、その間にも何等かの形に於て教会はキリストの福音を語り続けていたのである〕

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