富田高慶
二宮尊徳を創った男

 薪を背負いながら読書して歩く少年像が日本国中に存在した。いうまでもなく二宮金次郎の銅像である。しかし二宮金次郎という名前は知っていても、その実際の生涯と思想を知る人は少ない。
 ちょうど二月十八、十九日には、相馬市において全国二宮尊徳サミットが開催された。
 バブル崩壊で財政改革がいわれる現代、二宮が幕末に実施した農村復興政策の理念を町づくりに活かそうという趣旨で、二宮に関係する全国二十三の自治体が相馬市に集まったのだ。相馬市は最も二宮仕法が成功したケースとして知られる。
 しかし、最近はとみに忘れ去られている。
 二宮仕法で成功した現地である原町市(旧相馬藩石神地区)の地図を広げてみる。コンビニや書店で販売されている昭文社の地図。もっともポピュラーだ。町の西側に郊外に石神公園という小丘がある。そこに二宮尊徳生誕の地、と記してある。
 おいおいちょっと待て。なんで二宮尊徳が東北福島の原町で産まれたのか。天下の昭文社がこんなことでは困るのではないか。そう思って、はがきでこの内容について指摘したことがあるのだが、そのご全く返答はない。
 二宮尊徳が神のごとく扱われるようになったのは、実は、師を神のごとく慕った富田高慶という人物の著書によってスタートしている。
 勤勉、報徳、至誠、推譲などの徳目を提唱し実践した農政家ではあるが、この少年像の原点は、富田高慶が書いた伝記「報徳記」の中に、採薪の行き帰りにも、「大学」の書を懐にして、途中歩みながらこれを唱し、少しも怠らず」の記述だろう。
 富田は相馬の人。二宮の一番弟子で、尊徳の娘文子をめとっているほか、明治になって富田の進言で二宮の遺族をすべて相馬に迎え入れて生活の一切の面倒を見た。
 「報徳記」は明治十六年に宮内省より発行され、明治十八年に農工務省版、二十三年に大日本農会版が発行されるにおよんで広く一般に普及した。さらに明治二十四年に刊行された幸田露伴著「二宮尊徳翁」には画像として初めて薪を背負った少年金次郎の像が挿し絵として掲載された。
 戦前の小学校の庭に存在した二宮金次郎の銅像。
 怪奇伝記小説「帝都物語」で一躍スター作家の座を射止めた荒俣宏氏は、この小説で報徳社という結社を架空の霊的防衛組織として登場させているが、明治の御代にはじじつ全国に報徳社を名乗る結社が誕生したが、そのほとんどが政府からの補助金を得た金融機関であった。しかし現象的には少年二宮金次郎の銅像を神に仕立て上げた一派にみえた。幸田露伴を主要な登場人物のひとりにしているのは、この挿し絵入りの著書「二宮尊徳翁」があるからだ。もちろん富田鷹慶の名前も、相馬ゆかりの平将門や相馬神社の巫女などと一緒にでてくる。
 この著者の博識に驚嘆するものの、他の場所では「山深い会津の相馬藩」などと書いており、馬脚をあらわしているのも愛嬌だ。
 その後、明治四十三年に岡崎雪声によって最初の金次郎の銅像とされる作品が制作され、宮内庁が買い上げ、明治天皇の机の上におかれて愛蔵された。現在は明治神宮の御物となっている。
 全国の小学校に飾られるようになったのは昭和になってからのことで、明治三十七年以降、国定教科書に修身の模範として少年金次郎が数多く登場するに及び、石像、銅像の業者が販売促進するようになった。卒業生が寄贈したり出征軍人を祈念して建てられる場合も多かった。
 しかし戦後は、これが軍国主義の権化として解体撤去された。最近では、素朴な郷愁や新鮮なオブジェとして見直され人気が復活している。

 幕臣に満足した晩年の二宮

 「予が死近きにあるべし。予を葬るに分を起き(こゆ)る事勿れ。墓石を立る事勿れ。碑を立ること勿れ、ただ土を盛り上げて其傍に松か杉を一本植置けば夫にてよろし。必ず予が言に違う事勿れ」
 と尊徳は遺言した。
 土盛りだけの墓でいいという遺言を守るには、その思慕する弟子の追随者たちにとって二宮の存在は大きすぎた。遺言は相馬の土地で守られなかったわけだ。
 「県民百科」には大島昌継という人が二宮尊徳の項目を執筆し、
 「のち尊徳は相馬移住を決意して旅立ち、途中病死した。」と書いている。
 おいおい、それは本当の話なのか。数限りない二宮の伝記のどこをみても、そんな話はでてこない。
 その末尾に、「原町市石神に夫妻の墓がある」とも書いている。
 正確を期していえば、二宮尊徳の墓は相馬市にもある。そのうえで、尊徳が一度も相馬の土地を踏んでいないことを言っておきたい。墓には遺髪が埋められたのだ。

 尊徳は安政三年、一八五六年十月二十日、今市の代官宿舎で没した。晩年は肩打ちの発作があったという。持病は狭心症だったから、死因は心筋梗塞と思われる。(「草の巨人」毎日新聞社)
 相馬市には愛宕山に、慈隆和尚と並んで二宮の墓がある。ここから相馬における仕法最初の土地坪田、成田方面の耕土が望まれる。坪田という地名は、火葬場建設の是非で反対運動に阻止された予定地があったところ。読者もよく覚えておられるだろう。成田も二宮仕法の地名よりも現在は首都圏その他で好評の成田もやしが有名だ。
 かつて地元の相馬中学校では二宮の命日には、全校生徒が墓参りをして二宮祭りと称したという。(岩崎敏夫著「相馬の歴史と民俗から」)
 すこし離れたところには草野家老の墓が在る。
 尊徳の娘文子の墓は別に、斎藤高行と並んでおり、尊行以下、二宮家の墓は富田家の墓とならんで原町市にある。
  二宮尊徳は天明七年(一七八七年)、相模の国に産まれた。小田原藩である。ご存じのとおり貧しい百姓のせがれだったが、学問が好きで独学のうえ奇特な精神で篤農家となり、やがては藩経済の改革にも参画し苗字帯刀を許され士分となり、また天保十三(一七八七)年、幕臣となった。晩年は当時としては破格の出世に満足していた、とても相馬移住など考えるわけがない。相馬の人の勝手な創作だろう。

 富田高慶は、文化十一年、一八一四年六月、相馬中村城下に産まれた。
 天保元年、江戸に出て勉学する。十七歳のときである。
  同十年、二十七歳のとき同門から聞いて知った二宮尊徳の門人となる。わずかの書籍を売り払って旅費を作り、二宮を訪ねた。
 しかし最初、二宮は儒者に用はない、と言って会わなかった。
 ために谷田貝村太助の家に仮寓して付近の子弟に読書を教えながら、時々二宮をたずねて、戸外から師の話に耳を傾けたりして数ヶ月に及んだ。尊徳はようやくその熱意に感心して、入門がみとめられた。
 尊徳の実践していたのは実学であり、実地の学問である。測量、建築土木など帳面付け、経費の計算、などから指導を受けた。
 入門の翌年、師に従って小田原に向かう途上で富田は江戸の相馬藩邸に出向いて家老草野正辰に二宮のことを話した。草野は二宮の人物の偉大さを知って、高慶の訓育をよろしく頼むとの依頼する書簡を送っている。これが二宮と相馬藩との公的な接触の最初だった。
 藩主充胤、江戸家老草野、国家老池田図書胤直らは、高慶を通して早くから二宮を知ったが、その仕法の導入を願いながらも、反対も多く、未知の政策が相馬で実施されるまでにはかなりの年月を要した。
 尊徳は多忙ななかにも相馬のために為政鑑をしるして、分度を立てた。分度とは適正財政つまりは緊縮財政である。

 ある日、尊徳は充胤に面会し、相馬からの要請を受けて仕法の実施を引き受けることを伝えた。しかし、尊徳自身は相馬には行かない。高慶を自分の身代わりに、と申し出た。
 「貴藩の富田は我が門に入ってから苦学数年、その道に熟練した。貴藩の求めで仕法を行うことになったが、自分は公務で忙しいので富田を代理にする。私だと思って万事相談されたい」と。名誉なことだ。
 かくして高慶は弘化二年、一八四五年十二月、帰国。登城して、勧農古復係り代官席に命じられ、しかし俸禄についてはこれを辞退した。
 弘化二年十二月、相馬で二宮仕法を発業。以後、二宮の事業を助けながら、故国相馬の事業を指揮した。
 安政三年、尊徳が死去し、富田は「報徳論」を記す。
 土地を生産の基礎とした封建主義社会は去りつつあった。明治維新の嵐が東北までやってきたとき、富田は相馬藩主のおぼえめでたく、かつての近侍は家老扱いで藩の運命を託された指導者の一人となっていた。
 戊辰の役のとき、相馬藩は奥羽列藩同盟の一員として出兵し、大熊浪江で激戦を戦っていた。
 しかし相馬藩は小藩の悲哀で自分の意見が言えなかった。本当は戦いたくはなかった。北隣に伊達家の仙台藩という大藩がいたため、相馬は奥羽列藩同盟にひきずられて参加せざるをえなかった。城内では高慶不在の場で論議が沸騰し、降伏策を非とする一派が老藩主とその家族を仙台藩の要求どおり送るところだった。寝返らないようにとの人質である。
  富田は一族の論が通って降伏の全権を引き受けるや、軍使三人を選んで浪江に派遣したところ、一国の大事を微臣をよこすとは何ごとだ、と叱責されてしまった。みずからおもむくことにもなる。また北の仙台に、相馬藩南境にと奔走した。相馬は太平洋と阿武隈台地に挟まれて東西は欠落しているが、まさに東奔西走の言葉どおり。このゆえに富田は二宮仕法と戊辰の活躍で相馬を救った恩人といわれる。
 しかし、こんな富田をスターにしたてた地元の民謡ミュージカルというものさえ創作してしまった人もある。拝見すると富田が降伏使節として成功裡に使命を果たして深野村の人々とともに生還を喜び合う、という場面があった。富田が農民をいつくしんだのは事実だが、戊辰戦争当時は連日、中村城に詰めていた。深野村のある石神に定着するのは、明治になってずいぶん後のことである。
 富田には「富田高慶日記」という膨大で克明な記録が残っている。
 これをつぶさに読んでみると、慶応四年七月から八月にかけての記述から、熊町、浪江の戦いから、仙台藩兵が原町宿に火をつけて逃げた報告、中村城への官軍の進駐まで、明確なドキュメントがみてとれる。
 「七月十一日、原釜へ蒸気船二隻着岸。鉄砲持参の船」
 「二十八日、熊の関門瓦解」
 「八月二日雨。昨朝、浪江にてまたまた争戦不利。今日鹿島町まで引き揚げ。原町焼失の趣、申し来る」
 八月四日には、この淡泊で簡素な日記の筆者は、生涯でも重要な日誌を記している。相馬の決定的敗戦である局面に際して終戦工作に忙しかった。必要なときに必要な仕事をはたし、記述を残している。まことに相馬第一の人物といえよう。
 八月は一日から五日まで、ずっと雨で、五日は特に大雨だった。
 戦争は雨の中で行われた。
 「同七日晴。今朝六半頃より仙兵と争戦に及び数刻、黒木大坪の先まで追い払う。駒が峰より多数繰り出し、味方苦戦のところ、惣領戦士横を撃ち、短兵接戦勝利」
 おや。もう、ここで仙台兵側と戦っているではないか。
 「官軍中村へ繰り入れ、町家寺院侍家々まで宿陣。」
 進駐軍の到来である。
 「仙台駒が峰まで敗走、味方勝利なり」
 ともある。
 以後は、官軍の先鋒になって奮戦し、勝利、勝利ということになっている。
 相馬陣の仙台へのうっぷんはわかる。しかし、これは外から見ればふつう「寝返った」と表現されるものである。
 たとえば佐藤精明という漢学者なども、しきりに戦功があったとされている。これは、駒が峰方面の戦いつまり敵というのは仙台なのだ。
 官軍の戦いは勇ましかったと称揚し、仙台が敗走したと言っては喜ぶ。天下国家といった政治がまったくない。小藩の悲哀だといえばそれまでだが、相馬んぽ近代史は、悲しい。
 富田はそのほかの日々は、連日登城して藩主のそばに詰めている。農民など関係はなかった。
 再度いうが富田は家老なみの高級官僚である。領民は彼らの財産ではあっても、肩を組んで平和の到来を喜び合う仲間ではない。
 現代劇で民主的に描くというのかもしれないが、ちょっと悪のりにすぎる。
 維新後に全国で、農民の一揆や騒乱が激増した。富田もまた、仕法村における、たとえば小池で、必死の説得や鎮圧にでむかざるをえなかった。ハッピーエンドのミュージカルと、史実は百八十度異なるのだ。
 この民謡ミュージカルのシリーズの別作品では、福島市在住の女性作家が、著作権をめぐって裁判まで起こしたいわくつきのもので、この公判も傍聴したが、登場人物の描き方をめぐって公判で議論を交わしたという経緯も中身もたいへん興味深かった。こういうことは普通、地元の歴史好事家たちが、お茶を飲みながら楽しんでやるものである。
 教訓。郷土史といって勝手に自由な脚色をしていると思わぬところから訴えられて税金と公費をかけることさえあるということだ。

 明治になってからの富田の仕事は、旧藩士の土着を推進する武士の救済事業だ。一生を農村復興にささげた富田は、荒地の開墾の困難をよく知っていた。旧藩士の生計のために、農民から優良農地を買い取ってあてがった。武士とはいまでいう官吏である。つまりは報徳仕法は農民を救ったばかりでなく、むしろ新時代にはおろおろする自国の武士の命を農民のおかげで救ったのだ。
 二宮仕法は、時代を越えて継続された、とも言える。
 公的事業の報徳仕法は打ち切られた。ために明治十年八月、尊徳の子息尊行とともに興復社を結成して社長となる。明治二十三年、一月五日、死去。
 原町市史は、明治三十年に原町に銀行が出来たために興復社は消滅した、と書いており、毎日新聞福島支社の「明治百年」は、この間違いをそのままコピーしている。しかし、興復社は北海道に移って生きていたのである。この後、実は尊徳の孫の尊親が社長をついで、北海道に開拓の新天地を求めていた。地元で忘れ去られていたのだ。
 興復社は、たしかに金融機関になっていた。しかし当時の銀行は、いまと違って質屋ていどのもの(福島金融史)で脅威ではなかった。
 北海道に相馬から移住していった人々の苦労話は、こんにちインターネットで公開されている。(ニセコ町百年史のホームページ)
 地元だけで通用するような勝手な郷土史が多すぎる。すこし外部の資料にあたって勉強してはどうだろうか。

 二宮尊徳の名を知っている人は多いが、富田の名前を行っているのは、福島県の、それも相馬地方の歴史を知る人に限られるだろう。
 ただでさえ相馬の人物というのは歴史的に有名な人物は数が少ない。したがってこの意外史にも登場頻度が低い。会津の歴史研究に比較して呆然とするほどだ。これは、存在そのものの希少であるよりは、郷土史家の怠慢と、そして研究の絶対的不足による。かろうじて相馬郷土研究会などによる冊子によって、その一端が知られるが、ほとんどが相馬地元のスミノ印刷という印刷所のタイプ印刷というのも、相馬の歴史研究の実態を物語っている。

 昭和六十二年に発行された、歴史ズームインという本がある。岩手県の印刷所で作られた。いかにもデザインがださい。これは東北アワーという仙台放送局が製作した番組の概略をまとめたもの。
 司会に高橋克彦をあてて、娯楽教養番組にしたてていたが、放送したままで惜しいと思ったのだろう。わざわざ出版したのである。
 「戊辰戦争をかけぬけた外国人お雇い、シュネル」「三島通傭鬼県令」と並んで富田が福島県の話題の一本とされた。「お家再建請け負い人」というサブタイトルだった。貧乏藩の復興というテーマで米沢の上杉鷹山のような扱いであった。鷹山が、ケネディの書簡に引用されたように、富田がやった二宮仕法は、西郷隆盛の目に止まった。不徹底ではあったが開墾事業が明治まで生き延びた。

 富田の魅力に魅せられた人々はいるにはいる。
 戦災で焼け出されて石神の富田家の近所に疎開した広瀬敏子は、これがきっかけとなって富田高慶伝を記したことで福島県文化功労者として表彰されているが、その広瀬の名も地元では忘れ去られている。まことに忘恩の土地である。
 富田は写真嫌いで、一枚の写真さえ残っていない。病弱で、ひっきりなしに風邪をひいている。病気のデパートのような人で、温泉に行くのは仕事のようだった。
 孫の富田テルさんの証言によると、「祖父は写真嫌いで残っていない。木像は大槻吉直のくれたものでやはり相馬の佐藤朝山のちの玄々作である。
 斎藤(海東)三郎さんが記憶にある似顔を描いたのを土台に彫った。祖父は朝は粥と梅干。酒は少しのんだ。無花果が好き、川魚も好き、そばも好きであった。しかし美食はしなかった。病気は胃けいれん、皮膚病、神経麻痺などで、耳も目も丈夫でなかった。痔も患った。風もよくひいた。」というようなことが伝わっている。
 富田の娘の菅野ハルは、
「父は温和で小言は言わず、母にもやさしかったが、眼光はけいけいとしてみつめられるとおそろしかった」と語っている。
 高慶というひとは、病弱な肉体に強靭な精神をもった人物であったらしい。

 藩衰廃の原因は人災だった

 しかし、かんじんなのは、農村復興はよいとして、なぜにもそんなに相馬の農村は疲弊してしまったのか。岩崎敏夫氏の「二宮仕法の研究」には、相馬の疲弊が実は人災であったことが明記されている。
 「相馬藩が極度に衰えたのは、他の多くの藩のように暗君驕臣にわざわいされたものではなかったが、種々の原因がかさなり合った結果であった。つまり天災だけでなく、いわば人災もその原因をなしていたかに見える。しかもそれは遠く、かつ深いものがあったようである。
 まず原因の一つは藩主が諸士を養うのにかなり無理があったことである。乱世にあっては多くの士卒を置かねばならないが、泰平の時はそうはいかない。慶長の頃幕吏の島田某が時の藩主利胤に告げて、今は昌平の世であるから、多士を養う費用を節約して、公務の用途に充てた方がよくはないかと勧めたところ、彼は父に相談した。父の義胤のいうには、それはもっともなことだが、わが藩の諸士は皆戦時には粉骨砕身して功のあったものばかりである。今、国用不足のゆえを以てこれら忠誠の士を廃人に下すにはしのびないという。利胤も同意して一卒をも滅ずるを許さなかったが、郷村諸士の禄秩の多寡に応じて役金を課する制度を設けた。しかし無理はいかんとも出来ず、早くも数年の後にはその負担に苦しみ、人々は、金を納めるすべのないことを訴え、これを免じてもらいたい、それとも永の暇を賜うかという切端つまった訴を皆が連名で行なった。そこでやむを得ず、臣籍を除いたものが五百八十三名にのぼったという。これは小藩にしては小さな数では決してない。後年忠胤の時になってこの子孫の幾分は救われはしたが、何れにしても、せまい領土なのに養っておく人の数が多く、その人件費の莫大であったことが原因の一つだったのである。
 二には幕府より命ぜられる仕事の多かったことである。これは相馬藩だけではむろんなかったが、このために莫大の経費を要し、藩の財布は年々乏しくなっていった。」
 つまりは放漫財政のつけであった。いかにバブルに酔って借財をふくれあがらせた現代の銀行や企業や政府に似ていることか。
 ただし、相馬の地元では、その疲弊の原因が人災だとは公言してはならないことになっている。ただただ名君と名臣をのみ称揚する郷土史ばかりがもてはやされてきたため、もはやまじめな研究が絶え果てて、有名盛名にあやかるのみの、わけのわからぬ古い物好きになってしまった。
 報徳精神の伝統というなら、旧相馬藩領内な自治体は、国家の放漫財政を見習わずに、倹約質素の精神を実践する以外に、ないではないか。報徳仕法が輝かしい勝利だったのなら、なおのこと現在に生きているとは見えない。

 映画になった二宮と富田

 毎日映画が「富田高慶」を制作しているが、郷土の偉人を紹介するものとしては最も適当な映像による導入メディアだろう。
 小松方正という個性派の俳優がレポーター役とナレーションを担当している。実は小松の子供は、国内留学というシステムで、相馬郡鹿島町の山間にある財団法人の経営する牧場ポニーで、
 首都圏などで不登校など、一般学校に通学できない子供たちを受け入れている。そんな子供の保護者の一人だったことから、相馬の偉人の映画制作に一枚かむことになったのだということだ。
 「二宮金次郎」という映画もつくられた。六百兆円の借金をかかえて呻吟するリストラ時代だからこそ、企業再建のテーマがさいきん、とみにブームなのだ。
 「二宮金次郎物語」は福島市の民家園でロケ撮影された。
平成八年十月のこと。福島演劇鑑賞会が窓口で、男二十名、女七名、子供五人(男児三、女児二)の延べ三十二人のエキストラが募集された。
 若松出身守田康司さんがプロデュースした。後藤秀司監督。民家園でのロケは二宮金次郎家周辺などの場面。主演する俳優は寺尾聡、真野響子、林泰文ら。
 平成九年には「二宮金次郎物語/愛と情熱のかぎり」は第十回東京国際映画祭に招待作品として上映されている。

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