元号の変わった本年2019年、令和元年にあたって、昭和が平成に改元された30年前を思い出す。
原町での仕事は、状況的には最悪でしたが、精神的には最高に高揚していた。
あぶくま新報という新聞を創刊して4年目。
横村タイヤの社長がすべての資金を出して、税務申告も」個人企業として経営していた。
私自身は「おはようドミンゴ」という月刊タウン誌を発行するのと政経東北に連載記事を書いて、まだ時間が余っていたので、もうひとつの仕事も出来ると見込んで、横村政治サロンに出入りしていた。
そこでは、黒川万寿雄が浜通り日報というタブロイド新聞を棄てて夜逃げした後始末をどうしようかと、最大スポンサーの横村社長が一括引き受けて始末しようという議論が中心だった。
浜通日報を破産処理したあと、広告主の出資をそのまま引き継げば、新しい新聞が可能だという見込みがあったので、東清和という九州薩摩出身の男が、小高の女性と結婚して、小高に転居してきて浪人していた。
サロンの一員で鹿島の高田大工が「浜通り」というのは題字にならない地方くさいから「あぶくま」がいい、と意見してくれたので、あぶくま新報という題号でスターつづけてきた 横村社長が東を個人的な秘書のような形で、ポケットマネーで雇う形で人材を確保し、私が原的のためになるならとモノ好きで無給で協力し始めた。
創刊したばかりのあぶくま新報は、自分たちの新聞が出来て、門馬市長への批判記事が載っているだけで、嬉しがった。
しかし、4年も利益を出さず、ただ個人的な出資に甘えつずけてきた東主幹が、ただで借りている二階の事務所で大きな顔して、横村サロンの仲間の市会議員たち、とくに岡崎光正や菅野秀一、末永武、公明党の高野らが、横村サロンよりも二階の東主幹を慕って、議会の一般質問のアドバイスなどをもらったり、政治的な解説をしてもらったり。サロンの忠臣が、一介の社長の居室から二階の間借り人の周囲に移動してきた。
横村社長はそれが面白くなかった。
1989年1月に、ついに昭和天皇裕仁は薨去した。
マスコミは通常の機能がストップし、大葬の礼までテレビは歌謡娯楽番組は自粛され、お笑い番組もきれいさっぱりブラウン管から消え、ドラマも映画も禁止された。
異常なまでのナーバスな偉くなりすぎた。おごりの中にいた。
世の中は、まるで古代か中世のような神がかりの時代に戻った。
この機会に照準を合わせてぼくはブラジル再訪の計画を立てていた。前年の秋ごろから「おはようドミンゴ」でキャンペーンを組み、18人の相馬地方からのブラジル在住親戚訪問ツアーを募集していた。
テレビも新聞も、毎日のように天皇の下血の量を報道し、まるでカウントダウンのように天皇の死の予告で全国の空気を呪縛しつつあった。
この昭和の死を謹んであの世に送る時期こそは、マスコミすなわちテレビの仮死であった。教育放送だけが、子供の番組をまともに作り、まともに放送し、気の利いた国民は、貸しビデオ店に通い出し、好きなプログラムを見放題になったのと、意外にも殆ど死にかけていた映画館が、最期の息を吹き返していた。
1988年の11月と12月は、実はあぶくま新報主幹の東清和にとっては、厳しい二か月だった。
社長の横村一男氏が、給料を渡してくれないので、焦慮していたのだ。
横村氏にはありあまるほどの言い分があった。
あれだけ世話になって4年も5年もたつのに、もういい加減に自立して、すこしは社長の投資分に見合った給料分を出すのがあたりまえだろう。と社長が思うのは、当たり前だった。
それを何を勘違いしたのか、俺よりも偉くなったのか。という社長の心中の声が全く聞こえない東氏は、たしかに偉くなりすぎ、驕りの中にいたと感じた。
横村社長の月給は、40万円と決めていた。弟2人とははおや、むすこ2人を養っているほか、東京の芸術系の私立大学に進学させて仕送りしている娘がいる。
このほかに私設の秘書のような相談役のはずだった東氏が、いつのまにか、横村政治サロンの顔ぶれを二階のあぶくま新報のサロンにかさらってしまった。
のちに議長になる菅野秀一、市長選挙にいどむことになった岡崎光正、じっさいに市長に立候補して門馬直孝を破った鈴木寛林。木工場を経営して創価学会から市議になった高野正道。などなど。
もとはといえば、横村サロンのメンバーだ。すべて金をだすのは自分で、アドバイスを求めて寄ってくるのは東という流れ者のいる二階だ。しかもただで使わせていた横村社長が面白かろうはずがない。電話も横村タイヤが、東の新聞スタッフの電話代をすべて出していた。
(つづく)