相双新報、浜通り日報


 かつて相双新報という地域新聞が創刊された昭和50年度は、ぼくが大学を卒業して故郷に帰って来た年度でもあった。
 東一番町と呼ばれて外科の渡辺病院の斜め向かいの勤め人の通りに面した事務所を借りて事務所に使い、版下まで製作して、それを持ったまま狭い小路を東へ50メートルも歩いてゆくと、狭い敷地にライト印刷という印刷屋があって、ここで印刷してもらう。
 新卒の大卒社員として、いきなり「編集長」という肩書をもらって、月に一回の旬刊新聞のすべての記事を書きだした。
 主宰は黒川万寿男という熊本生まれの流れ者で、文学くずれ。営業の西山勲という地元の人物を雇ったうえ、写植専門の女性社員の3人のメンバーでスタッフを組んでいたが、相馬市からも営業社員として自衛隊をやめたばかりという27歳くらいの男性もいた。
 ところが、黒川社長が、この退役自衛隊員に記事を命じたが、いつまで待っても記事をあげてこない。そのまま出社しなくなり、変だなと思っていたら、文章を書くような人間ではなく、ただ次の就職をするのに声をかけただけのことで、実は自民党の代議士斎藤邦吉後援会に通っていて、どこかの相馬市の店か企業に就職が実現したらしかった。
 いかにも田舎らしいエピソードではあった。

 黒川は彼なりに、郷土史を発掘して貢献しようという企画で、シリーズで連載「郷土の先行者たち」という読み物を書け、との命令だ出た。
 原町市には、教育委員長になった東大卒の松永輝彦という希少な東大卒の元三井物産社員がいた。
 もともと原町出身の代議士の松本孫右衛門という代議士事業家などを、自宅の後継者を訪ねてインタビューしはじめたのが、ぼくの最初の仕事だった。

松永七之助の長男の冀三という人物から話を聞いたり、古いアルバムを見せてもらったのだが、二代目はちょっと大言壮語の傾向があって、話に尾ひれがついて、これなども田舎らしい風潮で、わが町の先輩がたの特徴はすぐわかった。
 松永七之助


浜通日報と題号を変更。黒川新聞は旬刊から日刊になった。


浜通日報の一面記事はニ上が担当し、裏面に「ドキュメント巨大無線塔が消える」の連載