大正12年の岡和田甫回想記より
大正十二年七月の野馬追も過ぎて間もなく当時の原町町長伏見勇七氏、町会の元老たる大橋勝治の各氏、野馬追問題で上京せられ、当時在京の私を訪問されました。同氏の談によれば野馬追祭典も年々盛んになり汽車その他の乗り物を利用して来観する遠来の客の激増して来たことは誠に喜ぶべき事でありますが、地元としては祭典に要する費用が増大し祭典の執行が困難となりました。昔は野馬追の祭場地の地元は多大のうるおいがあったと云われたが今日の地元は寄付や其の他の出費で民間には怨嗟の声さえ聞くようになりました。
実は乗り物の便利がよくなったので観客の多くは日帰りする人が多く、地元は何の利益も見る事が出来ない、このような祭りの連続となっては結局地元は負担に堪え兼ね遂には祭典を中止の止むなきになるかも知れない。今にして此の対策を講ずる事が最も肝要であるが何か名案はないかとお話がありました、以上両氏の談によりお祭りが盛んになって地元の町が困るという皮肉な現象を深く考えさせられたのであります。
其の時ふと思い浮んだことは明治七年以来野馬追は復興しても野馬追の夜の祭り、流れ山踊りの復興が忘れられていた事であります。この踊りは古来野馬追の姉妹行事として世に知られ、相馬に伝わる唯一の古典芸能であるからこれを速かに再興して他の郷土芸能と共にこれを公開し、これによって観客の足止めを計る事を最上とすることを建策したのであります。
★ 祭典当日の次第
時は維大正十三年七月十一日祭典日のことであります。六十年振りで復興を見た吉例流れ山の会場は希望により原町土木監督所前の大広場であります。会場の南方に北面して広大なる舞台が掛けられ舞台両側の大柱は緑葉にて装られ、架上には相馬流れ山踊りと大書したる額面を掲げ舞台の左右には、大鳥毛、五色胴白吹流し等の旗がものものしく立てられ、舞台の正面にはつなぎ駒の幔幕に一文字の注連縄が張られ其の中央に御神幣を安置し両側には真榊と陣太鼓と不忘乱の旗が立てられてあります。
★ 吉例の流れ山行事
空前の盛況
復興将に五十年
★ 振興会の歩んだ足跡★
★ 古典芸能全国大会出場★
★ 大蔵省主催三百万円宝籤発行記念 全国民舞踊競演大会に出場!★
★ 振興会員の活躍に見るべきも数多し
大正13年7月 相馬郷土芸術振興会創立 仝時に会長に推さる
大正13年6.21.相馬名物―野馬追祭 十一、二両日雲雀ヶ原でお国自慢の流山行列や夜麦搗もやる 本年度より