ハワイ再訪1984

さまざまな航跡  再び、ハワイの話にもどる。今年、昭和六十年は、ハワイ王国と明治政府との間に条約で交わされた官約移民開始から、ちょうど百年にあたる。日本人のハワイ移民は、いわゆる元年者と呼ばれる明治元年の移民からであるが、公式のものとなったのは明治十七年の条約によってである。現在のハワイにおける日系人の人口比率は四分の一で、二十四万人。知事は、日系二世のジョージ・アリヨシ氏。彼の少年時代のエピソードが、日本の道徳の副読本に載ることになったという。ハワイはアメリカの中の日本といわれるほどに、日本との関係が深い。私は、前回紹介したサム・O・ヒロタ氏の弟の、ジュン・ヒロタ氏を尋ねて、一九八四年暮れに再びハワイを訪問した。年末のハワイは、日本の五月ほどの気侯にあたるだろうか。暑くもなく、寒くもなく、すこぶる快適である。ホテルの側の日系人の経営する店に寄ってみたら、ちょうど餅つきをしているところだった。もちろん機械でするのだが、「あら、わたし白河の出身なのよ」「へえ。わたしは、四倉よ」等々。たちまち、出身地が福島だというだけで話題に花が咲いた。店には四人の女性が集まっていたが、十数年前に、ハワイヘ移住してきたのだとか。年末になると、日本が恋しくて「餅つきをしては故郷を思い出す」という。

ハワイ再訪  ジュン・ヒロタ氏は、激務の中にいた。東京読売巨人軍のキャッチャーとして、戦後活躍した日系二世のヒロタ選手のことである。ハワイのヒロタ氏を訪問して、近況をインタビューしたいと思い、手紙でその旨を連絡してはいたが、ストーブ・リーグのハワイは、日本人野球関係者の集結場所の様相を呈しており、ヒロタ氏は今日ハワイ側の受付窓口のような存在であった。話せば長いことながら、今から七十五年前に、私の義母の生家から武藤コウなる女性が、単身移民一世としてハワイヘ渡っていった。没落した生家を救おうという健気な決心の末のことである。名古屋出身の広田氏と現地で結婚したのちも、苦難の生活の中から、福島の生家に送金し続け、故郷の空に想いを馳せながらついに一度も帰国することなくハワイの土となった。長男オサム氏はホノルルの実業界で成功し、次男ジュン氏は現在ハワイ州立アロハ・スタジアムのナンバー3の地位にある。ハワイ滞在の最後の夜「やっと時問が空いたから」といって、わざわざ著者のホテルにたずねて来て下さった。私の眼の前に現われたジュン・ヒロタ氏は、さっそうとしていかにもスポーツマンらしい身のこなしであった。インタビューは、すべて、流暢な外国語で。(ハワイでは日本語は外国語である)
私が自己紹介をすると、彼は先ず左手をさし出した。指の関節が、ごつごつと節くれだって、いかにもキャッチャーの手である。この手が、ジャイアンツの四期の優勝を築きあげる一球一球を受けとめたのだ。
「昭和二七年から三一年まで五年間プレイした。五年いたうち四回優勝したことが一番の思い出だね」
「疲れている時なんかに、つき指をする。福島でも一度試合をしたことがあるけど、あの時にも突き指をした」

節くれの左手  男の顔は履歴書だという。キャッチャーという人種にとっては、まさに「左手」が履歴書なのだな、と感嘆の声をあげた。彼の人生が、左手の指に集約されているのだ。一九二二(大正十一)年生まれ、六十二歳のはずだが、鍛えぬかれた肉体は、青年のようにシェイプアップされている。
「一九四九年に、東映フライヤーズから入団の誘いがあった。あの時は、ハワイ大学を出て、子供が二人いて、家族を引きつれて日本で生活することに不安があったので断念した。もしこの時入団しておれば、私は日本の球団に入団する最初の二世になっていたでしよう」
ハワイ日系二世の入団は、一九五一年のヨナミネ氏が最初。ヒロタ氏が第二号となった。
——–子供の頃から野球が好きだったのですか?
「高校の時にはアメリカン・フットボールとベースボールを両方やってて、あの時は内野手をしてた。大学へ行ってキャッチャーになった」
——–今の日本の野球界をどう思いますか?
「ドラフト制度がどうもねえ。江川の入団の方法はフェアじゃない。アメリカでは、ビリの球団から若い選手を指名できるようになっているので野球界全体がよくなる。みんな強くならないと面白くならないよ」
——–アメリカでは、フットボールがさかんなんですねえ。
「そう。ちょうど年末は、アロハ・ボウルという大きな試合があって、昨日まで大変な忙しさだった。一月二十七日からはプロ・ボウルが始まるが、大学リーグの方が人気があるとぼくは思っている」
ヒロタ氏は、球場運営から駐車場のことまで、一切の仕事の任にあたっているので、私が訪問したのは一年中でも最も多忙な時期だったのだ。おまけに、アロハ・スタジアムは、恒例の日曜青空市場(フリー・マーケット)でも有名。一二月三〇日の今日も開かれていた。最近の日本の若い選手を見て、昔と比べて、いかがですか。
「まあねえ。どこの国も一緒だよ。結局は親の教育だね。ぼくは、自分の母親が強い人だったと思う」

激務のヒロタ氏
——–優しい人だったんでしょう?
「うん。でも、父が死んだ時にぼくら兄弟が三人して泣いていた時に、泣くのではない、と言われた。熱心なクリスチャンで、父は苦しさから解放されたのだから、ありがたく思わねばならない、と教えられた。そういう強さが母親にはあった」
コウさんは晩年の三年間を老人ホームで暮した。毎朝、兄夫婦が見舞い、毎夜ジユン夫妻が見舞ったという。コウさんは、日本へ帰ることが出来なかった訳ではない。自分が選んだ生き方に、殉じたのである。彼女の熱心な信仰のすすめによって、福島川俣の生家の当主武藤喜七(義母の父)は、当時としては珍らしく、キリスト教に帰依した。彼の愛用していた聖書は今私の手元にある。ジュン・ヒロタ氏は、野球を通じて今もなお元気に日米の架橋としてがんばっておられる。
——–読売巨人軍のヒロタ選手のことは、今もファンがおぼえています。日本の読者にメッセージをお願いできませんか?
「日本の球団でプレイして、一番良かったのは、ぼくがハワイでやってた野球を、日本のたくさんのファンに見てもらえたこと。そして、色んな友だちが出きたことだね」、「このあいだも、名球会のメンバーがハワイヘ来て、一緒にゴルフをしたけど、これも日本で野球やってたおかげだ。金田さんは、なつかしかったなあ。王さん。長島さん。近鉄の土井さん。鈴木さんとか。ありがたいと思う」「牧野さんとは、とても仲が良かった。残念だな」「どこに住んでも、毎日せいいっぱい楽しく暮らさねば、ね」
そう言うと、力強く握手をして、再びホノルルの夜の中へ戻っていった。
「まったく、どうしてこんなに来るんだろうと思うほど(ハワイヘ)みんな来るねえ」
今夜もまた、近鉄の選手三人をホノルルで迎えねばならない、という。ジュン・ヒロタ氏は、彼の野球人生のなかで、いきいきと健在であった。

ハワイ移民百年

過酷な労働 アメリカ合衆国という国は、植民地からの歴史を持つ、近代国家としては最も古い国である。同時に、いまなお多数の民族の移民が統行している「巨大な移民国」なのである。新世界と呼ばれる所以である。今年昭和六十年は、ハワイ日系移民の歴史の百周年にあたるとされている。十九世末、西洋文明の波に抗しながら王国としての独立を保っていたハワイヘ、新天地を求めて渡った日本人たちがある。明治元年に移民していった人々は元年者と呼ばれ彼らの勤勉な労働を見て感激したハワイ王朝七代目カラカウア王は、世界旅行の途次日本を訪問し、明治政府に対して日本人の契約移民を要請した。一八八一年(明治十四年)のことである。この時の政府間合意にもとづいて公式の第一回移民が行なわれたのは、今からちょうど百年前にあたる一八八五年(明治十八年)一月のことである。
横浜港から、九四四人を乗せた「シティ・オブ・トーキョー」号が出航していった。この船は、二月八日にハワイに到着した。この日を、記念して、日系二世のハワイ州知事ジョージ・アリヨシ氏は、「官約移民百年の記念の年として各種の行事を行なう」と宣言。一年間にわたって、日系移民の意義が提起される、重要な幕明けだった。天国のような南海の孤島に、ひんぱんな西洋人の上陸によって、悪い病気がもたらされた。未知の病源体は次々にハワイ原住民を冒し、人口を減らす。ハワイにとって、労働者を補充することは、経済上の急務であった。当時のハワイ産業は、主として砂糖キビの生産。移民たちの多くは、高収入高水準の生活にあこがれての渡航だったが、現実には白人経営者によって家畜同様に扱われたといってよい。
契約は三年間だったが、移民者が考えたような「故郷に錦」など、望むべくもない過酷な労働が待ちかまえていた。だが、もともと日本で凶作に苦しむ農村部から、新天地を求めて渡航した人たちにとって、ともかくも働かねばならない状況にあった。契約の切れる三年後には、アメリカ本土西海岸へ渡るもの、ハワイに残ったもの、日本へ帰る者などに分かれたが、一九〇〇年(明治三十三年)にハワイが合衆国に併合された後は契約制は廃され、自由移民となったので、数の上では急激に増えていった。これは、一九二四年(大正十三年)の排日移民法によって移民が禁じられるまで続いた。
ちなみに官約移民時代には二万九〇六九人、民間会社との契約によるものは四万二〇八人。自由移民時代になると六万八三二六人。このほか呼び寄せといって、家族等を移民させたり、写真花嫁と称する女性等が六万二二七七人(うち女性三万六二二人)。戦後の移民を加え、現在ハワイの日系人総数は約二十四万人。四人に一人の人口割である。白人労働者らと比べると、アジア人の賃金は低くおさえられている。食物も祖国日本のものとは異なり、何より苦労したのは言葉だった。外国に住んでいながら、自分の意志を伝達できないもどかしさ。昭和十六年からは、日米交戦という悲劇が起こり、あろうことかハワイが奇襲されて、ハワイ日系人たちはすべて敵とみなされ、指導者たちが逮捕されるという状況になる。移民にとっての百年とは、まさにこのような試練の連続だった。けれども、百年間の日系人の血と汗とは、今日の日系人の社会的地位や信用を築きあげて来た。太平洋戦争における二世部隊の犠牲的な活躍によって、彼らはアメリカ合衆国に忠誠を尽くす立派なアメリカ市民たることを証明したのだ。こんにち、テレビをにぎわす中国残留孤児の問題に比べて、ずいぷん対照的だ。一方は、望まれて渡航し、耐え抜いて働き、新しい祖国に奉仕し貢献した。一方は、銃口を向けつつ他民族の土地を奪っていった。その時の結果を、いま我々は見ている訳だ。

「二つの祖国」などない  それに、現在のハワイの日系二世より若い世代は、もはや自分たちが日本人の血を受け継いでいるという強烈な意識はないのではなかろうか。それほどに、人種的にも文化的にも混血した。生活圏としての「ハワイ」が、彼らにとっての故郷になっているからだ。ハワイで生まれ、ハワイで育った若者たちは、みな彼らの価値観と生き方を持っている。彼らは、ハワイアン(ハワイ人)なのである。
「白人ばかりの本土や、日本人だけの日本へ行くと、奇妙な感じがする」と、二世のユキノ・ヒロタ夫人はいう。彼女の息子たちは日系三世になるがそれぞれ白人女性と結婚している。孫が日本語を喋れるかどうかというのは、その家庭の親の考え方ひとつだろう。昨年のNHK大河ドラマ『山河燃ゆ』の放送が、アメリカ合衆国内では中止された。原作は山崎豊子氏『二つの祖国』だが、ハワイや西海岸の二世諸氏の論調は、厳しかった。
「我々には、二つの祖国などない。アメリカ合衆国があるだけだ」と。
せっかく順調に日系人がアメリカ社会に融けこんでいる時に、外野から不用意な不協和音を入れないでくれ、との反論が多かった。さもありなん。顔は日系人でも精神的にはアメリカ人そのものである。日本に住む日本人にとっては、海外の日系人さえも同族意識でみるきらいがある。多民族国家というもの、あるいは世界を体験しない日本人には、ついぞ分からない単純を事実だ。「俺は日本人だ」などと思っているうちは、国際時代に外国とパートナーシップを発揮できない。すなわち、こうした論理は「日本人なら分かってくれるよな」という内へ向けての甘えをひっくり返したようなものでしかない。明治の力とでもいうべき力が貧困な国情の日本から脱出していった人々にはあったような気がする。内に向かっては明治維新という革命に、外に向けては海外移住という舞台で、彼ら明治人の力が発揮された。海外で成功している一世たちには共通して、そのような明治の気骨が感じられる。アメリカ合衆国じしんも、かつてそのような移民一世の時代があり、また今日もその延長にある。日本からも、ケースは異なれ、十年前からといった若い移民一世もハワイヘ渡っている。

ハワイからのツアー  かつての重労働、社会の下積みの仕事を担当していた日本人たちは、やがて古いホノルル港かいわいに発展した。ダウンタウンからワイキキや山の手に移動してゆき、そのあとに、政情不安なフィリピン、ベトナム、韓国といったアジア系の人々が住みつき、かつての日本人が担当していた職業についている。やがて彼らの中から、日系人を凌駕する民族も出てくることだろう。福島県は、海外移住者の多い県だが県はすでに過去三回ハワイのホノルルで福島県観光物産展を行なっている。
この企画は、ハワイに住む福島県出身者を大いに喜ばせ、ついに母県訪問という形につながった。昨年九月十一日、ホノルル県人会母県訪問団(八巻文治団長)が初めて福島の地に降りたった。これまで、ハワイからの日系人ツアーといえば、関西が中心であったが、「物産展」が県出身者の郷愁を揺さぶったとみえて、今回の訪問は東北・北海道が中心だった。福島駅の東北新幹線構内で、歓迎式が行なわれたが、駅には県関係者や親戚といった人々が集まって、盛大な賑わいとなった。福島・ハワイの友好ムードは、一気に昂まった。訪問団の構成は、最年長の渋谷庄六さん(九二)をはじめとして一世十八人、二世十七人、三世八人総勢三十八人と色とりどりだ。歓迎式では、山田英二県商工会議所連合会長が歓迎挨拶をし、福島民報社の女子社員や県庁職員らが花束を贈るなど、終始なごやかな雰囲気で、今後の交流がますます盛んになることを予想させるに十分だった。
アメリカの新聞から引用する。

『山河燃ゆ』で議論沸騰  NHKの『山河燃ゆ』の合衆国での放送が中止された。これは、この大河ドラマの放映をめぐって、日系アメリカ人たちの間に持ち上った論争の嵐の結果である。このドラマは二世の天羽兄弟の物語であるが、第二次大戦中の日系アメリカ人の体験と愛国心、合衆国政府による彼らの戦後の処遇、戦後の戦犯裁判などに焦点をあてている。この兄弟が米兵として日本と戦うことになった時に危機が訪れる。原作は山崎豊子の「二つの祖国」であるが、著者にとって日系人の愛国心が二つの国の間で引き裂かれていたということが前提となっている。それが人種差別主義的であり、合衆国に対して忠誠であり続けた日系人にとって不当なものであるとして、このドラマヘの批判が生じた。かつての恐怖や偏見や誤解が再び生み出されることが危倶されるのである。ハワイ大学のアラキ教授は山崎豊子の作品の翻訳者として、ワシントンの日本大使とこのドラマ放送の妥当性について協議した。主人公の天羽賢治と重なる体験の持主であるアラキ教授は、このドラマによって、アメリカの大衆が日系人に反感を抱くことを恐れている。ドラマヘの反論は、第二次大戦中に収容所に拘留されていた日系人への補償の問題に対する懸念がもとになっているようだ。日系人への反感がそれを打ち砕きかねないからだ。小説はひどく反米的であり、収容所における日本人の残酷な取り扱いを描き、日系人は常に白人の犠牲者として示されている。戦争への日本の責任は軽視され、「南京大虐殺」を誇張した報道だとし、「真珠湾」をタイピストのミスによるものとしている。NHKは、テレビは原作とはかなり違ったものになっていると言明している。主な修正は、原題の「二つの祖国」を「山河燃ゆ」としたこと、思いやりのあるアメリカ人を登場させ、日本人のアジアでの残虐性を描こうとしたことなどである。アラキ教授はいう。「『山河燃ゆ』に対する反論には、技術的な理由も大きい。俳優たちの演技が日系人たちの身のこなしと違っているのだ。しかし、基本的な誤りは誤解である。日本人の血には魔法があると多くの日本人は考えているようだ。合衆国は世界中からの移民で成り立っている国である。移民の子供たちは、百パーセントアメリカ人だと感じている」(中川寛子訳)

注。「布哇日本人名鑑」という昭和2年発行の人名録(現地発行)には、次のような記述がある。(p370)
《廣田寛敬氏
出生  明治十年十二月十八日
原籍地 愛知県渥美郡福江町
現住所 オアフ島エワ
職業  郵便局員》
氏は明治三十二年九月二十五日布哇島に渡来した。布哇島ホノカア耕地に働いたが労働契約解除に関し耕地と労働者間の紛議を生じこれが解決のためホノカア日本人労働者代表の一人としてホノルルに出で折衝大に努めた、明治三十三年オアフ島カフク耕地、ワイアルア珈琲栽培地等を転々したが明治三十八年エワ耕地に移り耕地商店に勤務し大正元年エワ郵便局に勤務し日本人係りとして今日に至る、地方の故老でエワ禁酒会長等に推されてをる、家族は夫人コウ、長男治、長女芳子、次男順がある。

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