移民の町

福島県南相馬市。JR常磐線の仙台といわきの中間地点。
太平洋の波が寄せる海岸と、西に阿武隈台地を背負った小宇宙。
古くは相馬氏の治める中村藩と呼ばれ、温暖で災害もなく民謡のさかんな土地柄である。旧原町市と鹿島町、小高町が平成十八年に合併して誕生したありふれた東北の小都市だが、かつての藩主の城下で首府だった北隣の相馬市とともに、七百年続く中世武士の相馬野馬追という騎馬軍団の祭礼が今も行われ続ける伝統文化の町でもある。
火力発電所を擁して電力供給するほかには、地域の中心の商業と周辺の農業でなりたつ静かな町である。
相馬地方は天明天保の時代に大飢饉に見舞われ、人口の大半を失った。夏に綿入れを着るほどの寒冷な気候が続き、作物は全滅し、鼠や蛇、草木や土まで喰らい、餓死した我が子を喰らう母親の地獄絵が伝えられている。
藩命により人口回復のため北陸などから移民が奨励され、多くの農民が鍋釜ひとつで命を賭して山越えし相馬の地に迎え入れられた。もちろん百姓法度によって人民の移動が禁じられていたが、人口激減で農業従事者が壊滅し財政が破綻した藩は民力を渇望し、北陸からの移民を呼び寄せ、岩手最上地方から女買い入れをするなどの政策を断行した。
北陸はかつて封建領主を追放して宗教王国をうち立てた土地柄で、堕胎など子殺しを禁ずる戒律を堅持する土地柄でもある。加賀百万石といわれるほどの沃土でありながら、富山なども子沢山の農民を養う単位面積は相対的に乏しく農村の過剰人口に悩んでいた。
世に言う相馬移民は、真宗僧侶の手引きによって隠密裡に行われた。相馬は浄土真宗にとって空白地帯であったので、彼らは聖教の伝道と普及のために「働けば誰もが土地を貰える」という理想の楽土であるとの宣伝によって、多くの農民を相馬に送り出した。こうして自分と子孫のために新天地目指しての日本横断の国境越えが敢行された。闇夜にまぎれて故郷を脱出し、親不知子不知の海岸の荒海を渡り、峻険な山脈を乗り越えて必死の逃避行は、南無阿弥陀仏の名号と約束の地への夢だけが頼りであったろう。
彼ら移民が着いた相馬の地は「年に二度稲の花咲く土地」と歌われた楽土であるはずだった。しかし与えられた土地には先住農民が沃土を専有し、痩せ地と荒廃地であった。天国ではなかったものの、信仰と勤勉とでそれを実現すべく耕し、祈り、生活が立つようになって最初にしたのは真宗寺院を建設することであった。
天台や真言などの古い宗教と武士の拠り所であった禅宗に属する相馬の先住民にとって、死者を火葬にふす真宗門徒らの教義や風習はまことに異様なものに映じたという。いわば文化と価値観の相違はさまざまな軋轢や誤解を産みもした。しかし、やがて彼らの異質な血は、新たな相馬の気風として活力を提供し、宥和し、大きな根となったのである。これらの体験は、のちの日本人の海外移住においてもまったく同じ問題を提起するものであった。
さて、ブラジルへの移民は近代日本の貧困を解決するための国策として推進されたが、全国一の移民を送り出した町が、この旧相馬藩のうちにある。福島県双葉郡浪江町という南相馬市の南隣の町がそれである。南相馬市と浪江町の、二つの町が、ともに旧相馬藩領内であったことは、「移民」というキーワードで結ばれている。
こんにちブラジル日系人社会で、日本文化を象徴する代表的文化として根付いているものに「盆踊り」がある。日本人の魂を伝える伝承行事として、そこで歌われる多くが「相馬盆唄」である。それは、まさに移民の苦楽を物語る唄なのである。
近代において国家間の経済格差が、地球規模の移民を産んだ。移民とは労働移住と定義される。現代では国際化する日本へ百五十万人のブラジル日系社会から三十万の「移民の逆流」を出現させた。外国人労働者の問題である。
サンパウロやブラジル各地で繰り広げられる盆踊りが、こんにちブラジル・タウンと呼ばれる群馬県大泉町にも登場した。日系ブラジル人が逆輸入させたのである。
人口の一割以上をブラジル日系人が占める大泉町は、自動車や家電メーカーの工場が集中する日本の富の生産地である。サンバのリズムが溢れる特異な町に「相馬盆唄」が流れる背景には、百年の移民史が秘められている。
本書は、その「もうひとつの相馬移民」の物語をたどる記録である。

成田空港  一九八二年十二月。成田空港。義母に誘われて成田まで出かけた。ハワイの従兄にあたる二世夫婦が日本旅行にやって来るので会いに行くのだという。
ホノルルで土木ビジネスに成功し、国際ロータリークラブの関西ツアーに参加したが、団体行動なので母の郷里福島には来れないため、自分の方から別な従兄一家と私と孫を連れて空港で会うのだという。広田治氏は長身で知的な紳士であった。二世のユキノ夫人ともに日本語は流暢であった。日本人の両親によって治(おさむ)と命名されたが、アメリカ風にサム・O・ヒロタと表記している。わずか三十分の短い時間ではあったが、それは特別な時間と空間であった。私が地球上にひろがる海外の枝とふれあった最初の一瞬であった。
そのころ私は原町市から西方、県都福島市を結ぶ中間地点に位置する伊達郡川俣町に住んでいた。そこは妻の生家で、毎年年末になるとハワイとブラジルからクリスマス・カードが送られて来ていた。義母に聞くとハワイには伯母が移民し、その息子の二世がおり、ブラジルには従姉が住んでいるということだった。珍しい切手が貼られて綺麗に包装されたレコードやチョコレートが届くこともあった。
義母の生家は、さらに郡部の小神村の没落地主で、父親の姉にあたる武藤コウという女性が明治年間に貧しい実家を立て直すというけなげな目的を抱いてハワイに渡航した。そこで愛知県渥美郡出身の広田寛久氏という男性と結婚。当時日系人移民に一般的なサトウキビ畑の過酷な労働に耐えて、生家に貴重なドルを送り続けた。
ブラジルへは、コウの姪にあたる佐藤ノブという女性が、自分もこれに見習ってブラジルに雄飛しようとする福島県いわき出身に佐川義信氏に求婚されて渡航して行った。大正十二年のことである。関東大震災の悲報には太平洋上の船中で接したという。サントス港に上陸したあと、貨物列車でサンパウロ州の奥地に送られ、コーヒー農園での契約小作農として重労働から人生をスタートした。
小神村の生家を継いだ武藤コウの弟喜七は、同年生まれの娘に、この勇敢な従姉ノブの名を貰って命名した。やがて海外に飛躍するような女性になって欲しいという願いからだった。事実、太平洋戦争の直前に、義母ノブはアメリカ人宣教師の養女となるべくミッション・スクールの宮城女学院に編入されている。
ハワイの広田氏は熱心なクリスチャンで、コウもまた信仰厚き人となった。コウ夫妻は実家にドルを送って経済を救い、これがためにハワイでの生活の基盤作りが遅れたほどだという。しかしコウが送ったのはドルだけではなかった。一方でキリスト教の書籍を送り手紙で熱心に福音を伝えたのである。封建的な時代の農村では珍しく、武藤喜七夫妻は、大正六年に夫婦でキリスト教の洗礼を受けている。明治四十年頃から川俣町における初期教会員として長老をつとめ、昭和二十二年に死ぬまで信仰を守り、子供たちにも洗礼を授けた。
今日、その生家も父祖の土地も失われ、たった一冊の聖書が残された。それは現在、私の手元にある。この一家の物語は、生前に幾度も義母から口伝として聞かされていた。我が子らは、その血を受け継ぐ先祖の苦難の歴史の末端にある。
ハワイと南米。まだ見ぬ土地は、先祖の足跡の地であった。

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