日本人捕虜と南米日系社会

 フィリピンのルバング島で、終戦後30年も投降しなかった小野田寛郎さんが亡くなられた。帰国した日本は、自分が生きた社会と激変していたので、古い日本人の価値観の残るブラジルに移住して牧場を経営した。子供が親をバットで殴り殺す事件にショックを覚えて、毎年福島県で小野田自然塾を主宰し子供たちに健康な生き方を教えた。氏が大熊町で講演した時に、駈け付けた思い出がある。ブラジル語で「ボンジーヤ」と挨拶したら、満面の笑みで握手して下さった。

 太平洋戦争の最初、真珠湾攻撃で特殊潜航艇に乗り組んで出撃し、捕虜第一号になった酒巻氏は、トヨタに入社し、ブラジル現地法人であるトヨタ・ド・ブラジルの社長に就任。また同地にて日系商工会議所専務理事も兼任した。

私の叔父はハワイの捕虜収容所で、酒巻大尉と同房だったので、日本人として毅然として卑屈にならずに生きろ、と教えられたという。

奇遇なことであるが、捕虜になることを恥とする戦前の文化で育てられた彼らが、等しく日系人の多いブラジル社会に後半生を選んだことに興味を持った。

誰しも、自分と同じ価値観が認められる社会で暮らしたい。最初の捕虜と、最後まで捕虜にならなかった男の、ハワイとブラジルの日系社会を研究するライフワークを30年研究してきた。

先月、福島県の招待で南米などから在外県人会の子弟の二世、三世たちが来訪したので歓迎して歓談したが、ポルトガル語やスペイン語を日常語とする彼らは日本語はしゃべらない。結局英語で会話したものの、両親から福島で育てられた文化と人情は、母県の淳良さを伝えていた。

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