母国に帰りて
一移民の手記
佐藤一水

雨が降っても、地震が振っても日本はいいところです。
殊に目路のとどく限り山は蒼く、田が青く其処に点々碁布している農家の庇の静けさは、何といふ自然といふものの法則にかなっている事でせう。

私は再びさうした自然のふところに抱かるべき帰って来たのです。海のかなたの東の果てに横たはっている渇き切った大陸、そこから人工と文化のいとなみを取り除いてしまったら、只残るところのものは赤岩の起伏と:砂漠の連続との外に何物もないであらうところのアメリカの国おば見捨ててきたのです。
そして私は矢張り故郷に帰って来ました。北米二十年の間、夢寝忘れることの出来なかった故郷に帰って来たのです。
隠したってしかたのないこと私は今年五十になりました。細川頼之ではないが、
人生五十愧無切
花木春温夏己中
の感で私の胸は今一杯です。
そのかみ、郷党の誰もがあまり起しても見なかったであらうところの大それた望みを抱いて青春の血に燃え盛る二十九といふ歳を頑健な胸と脛、それを唯一の資本として、黄金花咲くてふ降るアメリカへ、妻も子も泣いて引き止めてくれる老たる親をも振りすてて孤影寂然、全く字義通り私は寂しく国を離れたのでした。
明治四十年七月十九日 この日こそ、私の一生に或一新紀元を翻した、永遠に記念すべき日とはなったのです。
まだ春秋に富まれていた私は、ひた働きました。母国に居ては予想、否空想もしてみなかった程の辛い苦しい勤めも果たしました。そして報われたものは果たして何であった 人種的偏見より来る屈辱と生国を遠く離れた者のみが味はひ得る非土の悲哀 只それだけに過ぎませんでした。併し
さうした此の屈辱と悲哀より外何物のとりえもなかった異国の生活ではあったが、私どもは絶えずよりよき改造の生活に向かっての進出を怠りませんでした。
遂に私共の努力が報われるときが来ました。それは即ち物質の充実でもありません。我欲の肯定でも勿論ありません。物質から我欲から超越した私の現在の生活様式です。堪らなく私には嬉しいのです。
在京二十余年の苦闘の生活は漸く私に此の自己満足を与へて呉れました。
今後の私は之を以て私の宗教とも信仰ともして、信仰づけて行くことでせう。
昭和3.6.10.福島毎日新聞

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