はじめに 福島県人とブラジル移民

六月十八日は海外移住の日だ。
明治四十一年(一九〇八)のこの日、第一回ブラジル移民七八一名を乗船させた笠戸丸がサンパウロの表玄関であるサントス港第十四埠頭に入港した。日本のメイフラワー号とたとえられるこの船は、日露戦争の日本海海戦でロシアから捕獲したアリョールという病院船を改造した東洋汽船である。戦争中国交断絶しながらも戦後まで合計二十五万の移民がブラジルに移住した。
すでにメキシコ、ペルー、ハワイ移民が始まっていたが、北米の大陸横断鉄道の建設で沸いた明治四十年頃、黄禍論と排日論が叫ばれ、新たなブラジル移民は日本の農村の余剰人口を調整という政府の「棄民」政策だったとも言われる。
笠戸丸には八六名の福島県人が乗り込み、アルゼンチン入植のほかブラジルには七七名が上陸した。
戦勝国の誇りを背負って、移民といえども日本臣民の代表として意識し、何かにつけて日本人全体の象徴として注目された人々であった。
東北の貧しさから逃れるように応募した移民は多く、北海道、九州に次いで日本で五番目の大量移民を送り出し、中でも双葉郡浪江町が日本一のブラジル移民供給源である。
満足な事前調査も指導もなく、日本人の多くは米作を試みて低湿地に入植し、未知の風土病マラリアに冒されバタバタと死んでいった。
また言語、文化、習慣の違う異国での生活の困難は想像以上で、農地を脱走する者が相次ぎ、農家には銃を構えた白人監督が見張り、移民は実質的に農奴であった。
相馬郡大甕村出身の渡辺孝は、相馬中学(第一回)を卒業後、東京外語大でスペイン語を学び、東洋移民会社に就職。最初の仕事で鉱山移民を募集し、大正二年にこれを引率してブラジルへ渡航した。
しかしミナス州鉱山の移民全員があまりの労働条件のひどさに逃亡してサンパウロに出たため、通訳の渡辺は就職斡旋に奔走した。郷愁に骨を噛む初期移民が集まって親睦をはかり、ここに大正六年、渡辺孝を会長として在伯福島県人会が誕生した。
「歩く県人会」「ブラジルの大久保彦左衛門」の異名で親しまれた渡辺は、福島県人と聞けば新たな移民船を出迎え、また奥地の県人を訪ねては「借金の船賃を返す金があるなら豚を飼え」と進めて歩くような人物であった。
言語の壁から現地社会に参入できないでいた移民を指導して、福島県人中心のモジ産業組合を結成。初代組合長に就任。これは先行する高知県人主体のコチア産業組合に対抗する勢力となって、ともに蔬菜の近郊農業を育て、日本人の現金収入の道を切り開いた。
実にブラジルの食文化は肉食中心から、野菜という日本農業豊かさを加えた功績がある。
サンパウロ州モジ・ダス・クルーゼス市は高地にあって冷涼な気候がマラリアを逃れた県人はじめ、福島の郷里の山河を思わせる地形のため、集中して住んでいる。
独立心と反骨精神の持ち主だった渡辺は、日本政府からの補助金をたてに任じ介入する領事館と対立し、邦字新聞に大論陣を張ったが、昭和十四年の組合臨時総会で演説する席上で興奮のあまりに卒倒しそのまま急逝した。
彼の死を悼んだ県人は、彼の功績を称えて墓誌と銅像を建立している。
戦後の歴代知事佐藤善一郎、木村守江、松平勇雄、佐藤栄佐久、佐藤雄平などが訪伯して銅像に献花するたびに、渡辺孝の業績は甦る。
昭和十年(一九三五)の芥川賞第一回作品に石川達三の「蒼氓」が決まった。続編の「南洋航路」には、移民船の中で相馬民謡を歌う酔いつぶれる移民の姿が描かれている。石川は、現実の移民船に乗って取材し歴史の一瞬を文学史に記録したのである。
戦争によって日伯両国は敵国となり、日本語が禁止され農道で二、三人が立ち話しても捕縛される時代もあった。
戦後は日本の敗戦をめぐり「勝ち組」「負け組」の血の抗争があり、永く紛糾した。
戦後の祖国救援活動は特筆しておかねばならない。
相馬郡石神村出身の菅山鷲造は、日露戦争の生き残りで新聞広告を見て渡伯移民を決意。大正三年に渡航した。行商から始まり商業の世界で大成功し、渡辺孝の女房役として県人会会計をつとめ、戦後は社会福祉に尽くした。
サンパウロ州中央委員会会長として祖国救援活動を展開。
昭和二二年から二五年にかけて、戦災者の為に二二万ドルの洋服二、古着、粉ミルク、干うどんと三千俵の砂糖を送ったほか、個人としても私財七千五百万円を投じて、孤児院や戦災未亡人、引揚者に援助物資を送っている。
昭和二五年には、墓参りを兼ねて母国を訪問したが、町には「菅山鷲造来る」の幟りが立ち、村役場での懇談会では菅山も村人も涙にくれたという。
今日の経済状況は、二十五万人の日系ブラジル人が「逆流」して日本における外国人労働者として多くを占めている。
二〇〇〇年八月にはブラジル発見五〇〇年記念サンパウロで相馬野馬追祭が開催され、日本文化の粋を紹介した。
日本人移民百周年を迎えた今年は、日伯両国で祝賀会が開催されているが、移民の労苦を思うとき、福島県人が日系社会で活躍した歴史をふりかえり、渡辺孝や菅山鷲造らの名前は記憶されるべきと思う。
次の百年を真に日本が国際国家として生きるために、先人の苦労を学びたい。

日本ブラジル交流年
二〇〇八年四月に行われた日本ブラジル交流年記念式典で、天皇陛下はメッセージを述べられた挨拶の中で、戦後の祖国救援活動に対して、サンパウロの日系社会に感謝の言葉がありました。
これは名前こそ出さないものの、サンパウロ中央委員会で運動の中心となった菅山鷲造へのオマージュと言ってもよかった。
式典に招かれた高野光雄と祥子夫妻は、正面に座った天皇皇后の左上のプロジェクター・スクリーンに、天皇の言葉が次々とポルトガル語で映し出されるのを見ていた。
福田総理と、式典実行委員長の麻生氏、高村外務大臣、ブラジル大統領特使、日伯文化協会長らの並ぶ雛壇を眺めながら、自分たちの置かれている現在の立場をふりかえっていた。
天皇は、日系人労働者の多い、太田市、大泉町を視察し、激励の言葉をかけている。
このとき高野夫妻はレセプションでは、美智子皇后に手招きされて直接話を聞かれ、また天皇と握手するために緊張して待っている間に、皇太子と握手したりもした。汗びっしょりになった。
日伯の架け橋になって、同胞のために奔走してきた生涯の、ひとつのクライマックスであった。
高野夫妻はブラジル生まれの子どもたちとともに、大泉町で日伯センターというブラジル政府公認の学校を経営している。日本の経営者と、ブラジルの労働者の双方の立場に立って、通訳や相互理解のための仕事に挺身している。
ここまで来るまでの来歴がある。
多くの先輩移民たちの思い出もある。
天皇は、そうした背景をよく知っていた。3回の訪伯を通じて、日系人の苦難を理解し、特に困難な戦後の一時期に、ブラジル同胞から日本が援助された故事を、わざわざ取り上げてくれたのだ。
それはまさに、百年目の節目にふさわしい歴史の一瞬だった。
ブラジル移民の歴史をふりかえる時として、今ほど適当な年はない。次の百年がより実りある交流の原点となるように、ここに一つの町からの移民の物語をかたろうと思う。

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