海外の枝  私の三人の子供たちは、義母の血族につながり、私を彼ら海外の枝につないでいる。私の知らない、義母の出身地である川俣町小神の武藤家の人々の歴史について、妻との結婚以来五年のあいだ、いささかの興味をおぼえ、とりわけ明治大正の頃にハワイとブラジルへ移民した義母の伯母たちに、思いが至った。「家族の樹」とでも言うべき血族の血統が、地球をとりまいて各地に根付いている。私はその実際をこの目でみる幸運に巡りあった。
昭和五十八年十二月、小神の武藤家から出た二家族四世帯の総勢十四人で、ハワイへ墓参したことが、どれほどの重い意味のあることであるかを、私は知っている。小神の武藤家から、コウという十九歳の娘が、ハワイへ移民花嫁として渡航していったのは、いまから九十年も以前のことである。ノブにとっての、伯母にあたる。
ノブが、生前のコウ伯母に会いに行く計画を立てたのは、ずいぶん以前からのことであったが、「それだけのお金があるのなら、子供の教育のために役立てよ」という伯母の返事を、涙のうちに受け入れざるを得なかった。ついにハワイ訪問が可能となった時、コウ伯母はすでに世になかった。しかし義母には精一杯の精進のあとの、万感こもった初訪問だったのだ。すでに還暦となっていた。
ハワイの二世サム・O・ヒロタ氏は、これまでに何度も日本を訪問している。終戦後に、あるいは昭和三十年代に。そして五十七年十一月と五十八年四月に。
義母の決心は、こうした血縁の広田氏の訪問にこたえての答礼のつもりであったのだろう。義母は、ローマ字でハワイ訪問計画のあるところを手紙に書いた。広田氏は日本語を喋り、聴くことができるが、日本の文字にはなじんでいない。返事は、もちろんのことながら英文であった。
Jan.17 1983
Dear Nobu chan
Please excuse me for writing letter to you in English, but it is so much easier for me.
I received your letter and I am thankful to Kihachi for sending some things I brought for you, but was not able to give them to you at the airport.
I am so sorry that the time was so short to talk you. It was nice of you to come all the way to Tokyo from Fukushima.
I was glad to learn in the short time that you have your own kindergarten school.
I was also happy to learn from your letter that you are planning to come to Hawaii. Please let me know ahead of time when you are coming. Hawaii is small but it is beautiful and also Hawaii is part of America.
Please write and let me know if I can do anything for you.
With aloha and Love. 廣田 治

最後の、旧字の漢字署名に、サム・O・ヒロタ氏の日本への思いを、そして日本の血族への思いを汲まないではおられない。この一通の手紙が、私どもの家族と、ハワイの人々の家族の枝をつなぐ大枝となった。
私たちのハワイへの墓参については、帰国直後に地元の雑誌に一文を寄せたものがあるので、次に紹介する。

虹の果てなる島

日系移民のことを、ずっと考えていた。妻の親類に、ハワイヘ移民した人と、ブラジルヘ移民した人があり、いつかはそれらの土地を踏むつもりではいた。四家族の親類とともにハワイを訪問したのは、昨年の暮れのことであった。移民一世として故郷に帰ることなく、異国の土となった人の墓へ参り案内してくれた親類の二世の涙にわれもまた落涙した。
十二月のハワイの空を見たい、と思った。その空間に自分の肉体を置いてみることは、日本人とか、日本という国を考えるうえで、特別な意昧があるだろう。ホノルル空港へ降りる直前に、ジャンボ機の窓から真珠湾が見えた。「あれがそうですよ」と、乗務員席のパーサーが教えてくれた。それから、サァッと俄雨の中に飛行機がとび込んだので、窓はいきなり曇り、水滴にあふれた。着陸して最初に我々を迎えてくれたのは、あざやかな虹であった。

ハワイ二世物語 疲労と倦怠と睡眠不足とで、米国入国までの待合室での時間は、到着の感激を複雑に屈折させる。同じ便に乗ってきたTVスターの周囲に、小さな賑やいだ空気が出来ていたが、無関心な私には何の意味もなく、出発前に読んでいた「ハワイ二世物語」(原題HAWAII~ END OF THE RAINBOW) という本の中の、いくつかの場面などが心に甦った。移民時代の多くの物語それらは確かに遠い昔の話ではあるが、彼らが味わった上陸時の屈辱を、たぐらないではおれなかった。ただ待たされるだけの時間は、むなしく、不要に思えてくる。清潔な室内や、アロハシャツの空港警備員を眺めながら、一世紀前の我々の先輩たちが、決してこのような快適な具合にはゆかなかったであろうことは、容易に想像できる。何しろ、単なる観光ツアーの訪問者である我々でさえ、彼らの苦痛の何万分の一かは、こうして味わっているのだから。今頃は、福島では雪が降っているかも知れない。それなのに、こちらの暑さが少しも奇妙さを感じない。時差のことも気にならず、ただ面倒な手続きがもうすぐ終わるであろうことが、いくぶん気を楽にさせていた。
冷静な理性のつまらなさと、もっと無邪気であってよい筈の感情との間で、眠たい眼をあけておかなくてはと思うばかりで。空港の建物を出た所に、彼らサム・O・ヒロタ夫妻は待っていた。八二年十一月に成田でお会いしてから、ちょうど一年ぶりの再会であった。
「オオ、ヨクキタネー、疲レタロー」
我々一行の目的は、共通の伯母である広田コウという女性の墓に参ることであった。福島に生まれ、ハワイヘ渡航し、移民一世として、異国の土となった。生前ついに日本へ帰ることがなかったが、望郷の念は察するに余りある。ヒロタ氏夫妻の喜びにみちた顔を見つけて、思わず熱い思いがこみあげた。彼らの両親は、どんなにか心細い気持ちでこの島へ上陸し、そしてどんなに望郷の念にかられながら働きぬき、生活を築きあげたことだろう。二世の夫妻は、その気持ちを受け継いでいるのだ。武藤コウは、広田夫人となって後、かなり長いあいだ郷里の生家へ送金し続けたために、広田家の基盤づくりが遅れたとさえいうほどである。思いは溢れ、言葉は足らず、あわただしく原住民の観光的な歓迎を受け、レイをかけられ、写真を撮って貰って、ヒロタ夫妻と落ちあう時間や場所を短かく決めると、観光バスに押込まれてしまった。身も心もへとへとになっているのだが、ホテルのチェックインまでの時間を利用して、効率的にサービスしてくれるという訳だ。過敏な耳と眼は、右へ左へと示される通りに注視し傾聴する。珍らしい地形や建物や植物。しかし、実感は湧かず、ただ本でも読んでいるみたいに、通過する外の眺めとガイドの説明を聞くばかりである。二人の子供たちは、ずっと前からダウンして、ひたすら妻の腕の中や座席で眠っている。許容量を越えた情報が次々に与えられるが、その結果は単なる刺激と変らない。ちょうどバスの騒音や揺れ具合と同じだ。
多分、今回の行程では二度と見ることのないコースだろうと思うと、さもしい根性で貧欲に眼を凝らしては瞼に風景を刻みつけ、短かい休憩時間に停止した土産物店では、計算機片手に片っ端から値段を換算してみる。「オ手伝イシマショウカ」などと、ムームー姿の売り子が寄って来るが、「ノーサンキュー。ジャスト・ルッキング」と断ってまわる。とにかく眼玉の飛び出すほど値段は高い。例えばムームー一着六十ドル(一万四千円)、ビーチサンダルが十五ドル(三千五百円)。

サンドアイランド ホテルで再びヒロタ夫妻と合流したのは午後二時半。着換えもせずに、冬服のままでチェックインする。シャワーを浴びて、とにかく横になりたいところだが、五つ予約した部屋(我々一行の総勢は四家族十四人、大人九人に子供が三才以下五人である)のうち二つは、まだ準備できないという。スーツケースも届いていない。ただ、一流の眺望が心をなごます。ダイヤモンドヘッドとワイキキビーチを一望のもとに見晴す景観を所有するこのビルは、レインボータワーと呼ばれる一棟で、建物の外壁に巨大な虹の色彩が描かれていて、遠方からも特徴的でよく判る。
その三十階あるなかの十八階。左右対象的な配置の廊下で、二才の娘が迷って泣いたり、一行の一人が部屋にカギを忘れたままドアを閉めたり、それでルームサービスに電話をかけたり、以後野次喜多道中を繰展げる訳だが、かつて日系人が働いていた職域には、マルコス体制をのがれてきた多くのフィリピン人移民が進出しているとかで、見かけるメイドやポーターは、そうしたアジア人や、生粋の白人とか、日系人とか、原住民混血とかの雑多な人種が入り混じっている。ヒロタ氏と夫人を囲んで、日程を相談しながら、珍らしい風習や世情、土産物のショッピングについてアドバイスを受けた。それは短かい期間を有効に活用するためには必要な打合せなのだが、心は既に各々の関心のありどころへ向いている。私の胸には、準備してきた質問項がふくれあがったが、私の方から切り出す必要もなくヒロタ氏みずから語り出した。もちろん真珠湾奇襲の時の事と、以後の苦難についてであった。それからヒロタ氏の成功している子供たち(長男はヒロタ・カンパニーを継ぐ土木工学博士、次男はカリフォルニア大卒でハワイ大学助教授、長女はエンジニア修士で医師と結婚している)や、ブラジルの親戚のこと、そして我々の近況。最も知りたかったのは、サンド・アイランドのことであった。ヒロタ氏の母親の生家と祖霊を守って福島にある武藤喜吉伯父が、かつて昭和二十一年の一月から十月まで、捕虜としてハワイの収容所にいたことがある。伯父が最初に収容された施設は、砂島であったという。
「オオ、ソレワ知ラナカッタネー。初メテ聞イタヨ」
ハワイに自分や、母親(喜吉伯父にとっては伯母にあたる)がいたのだから会えばよかったのに、と言う。
In the intern camp, he never said that he had an aunt in Hawaii because in war days, U S. believed that Japanese Army soldier was no good and fanatic. So, if he said he had an aunt and cousins in Hawaii, He was lynched in the intern camp.
「ドウシテソンナ事スルモンデスカ!ソンナ事アメリカガスル訳ナイ。ドウシテ、ドウシテ!」
ヒロタ氏は首を横に振って、判らないという表情になる。
「そうじゃないんです。日本軍の捕虜の間でリンチを受けるから言わなかったんです。」
By Japanese Army prisoner he was lynched.
決して、すぐに意味が通じた訳ではなかった。米軍からではなく、収容所内でさえ捕虜の間では日本式の秩序があって、仲間から迫害を受けるから、ハワイに親戚がいる事を口外しなかったのだという事実を了解すると、
「オオー。ヤー」
大きく溜息をついて、彼は納得した。収容所体験の現場(伯父の言う砂島)が、現地の人々にはサンドアイランドと呼ばれ、太平洋戦争開戦直後にハワイの日系人社会の指導者三千人余りが、強制収容された場所であることを、前述の本で知った。それで、私はたたみかけるように質問した。
then I want to know the place sand island. Where is sand island ?
「ヤー、コッカラ見エルヨ。アノテレビ塔ノ向ウ側アタリニナルカナ。アソコガサンドアイランドダ」
ヒロタ氏は立ちあがって指さした。美しいホノルルのホテル街を、ヨット・ハーパーを望むことが出来るこの位置から、伯父の忘れがたい収容所体験の現場が見えるのだ。(ああ、伯父さん。あなたの言う砂島が、あそこにありますよ)と心の中で眩いた。人生の中の、原点とも言うべき場所は、そんなに数多くない。戦争体験の場合の、海外の戦場や、収容所の場所というのは、およそ観光地とは無縁の位置にあるのが普通だ。そこを歴訪できる人は、むしろ幸運なのである。ヒロタ氏には三日間つきっきりで案内して貰ったのだが、質問したいことは山ほどあり、英文でメモして予習してきていた。けれども質問しているうちに熱を帯びてきて、簡単な単語をしばしば失念してしまう。最初の日から、そんな具合だった。
「日本語デ喋ツテモイイヨ。僕ワ日本語ワカルカラ」
というヒロタ氏の助け舟で、あとはずっと気楽に英語と日本語のチャンボンで喋り、結局テープレコーダーも回さなかった。とにかく夢中で喋った。なつかしい中学時代の英語の授業を思い出したり、楽しかった。ヒロタ氏もまた、多くのことを語りたかったに違いない。にもかかわらず、遠方からの客の、様々な要求に答えるために、実際にはショッピングのことや、食事のことや、雑多で具体的なアドバイスを我々に提供しながら個人的な思いの端々を話したのである。ヒロタ氏夫人が、フリー(無料)の観光ガイド誌の地図を展げて、色々と説明してくれる。移民者たちの町主にワイキキ地区の繁華街とホテル街の地図と、オアフ島全体の地図が収められているのだが、ワイキキに隣接するダウンタウンは好ましからざる風紀の中にあって明らかに観光地区ではない。移民者たちの古い町として栄えたダウンタウンは、ホノルル空港とワイキキにはさまれて、どんな地図でも途切れている。載っているのは、オアフ島南部の全体を示す観光案内図の中であって、そうした場合にはサンドアイランドの文字は、全くないか気がつかない程小さいかのどちらかである。現地の人ならみな当然知っている筈なのだが、日本で百科事典や世界地図のハワイのページを目繰ってみても、あまりに小さな地名は皆目わからない。行ってみなければ判らないという事が沢山ある。スーパーストアで、九十九セントというバス運行図を求めて、やっとその文字を確認した。ホノルル港内の、一区画が、私の知りたかったその場所であった。
二目目。ヒロタ氏の御両親の眠る墓に参るために我々は出発した。この日、彼は墓地へ案内してくれたあと自宅へ招待してくれた。金文字の刻みこまれた夥しい数の日本風の墓石の立ち並ぶ日本人墓地は、日本のそれに形こそ似てはいても、強い太陽の日差しの下では、全く異なる雰囲気に包まれている。鉢植えのポインセチアの真っ赤な葉が、どの墓にも飾られている。この島を象徴する風景だなと思う。ポインセチアの名の由来は、クリスマス諸島で、ポインセット氏なる人物が発見したことによる。クリスマス・フラワーとも呼ばれ、クリスマス諸島とは、このハワイの南の群島をさす。

七十五年間の記録 高層ビルと、丘の上の日本風の寺院の塔とにはさまれたこの墓地は、簡素な平板の墓石の横たわるキリスト教式墓地に隣接している。ここで何枚もの記念写真が撮られたことは言うまでもない。そのうえヒロタ氏は、もし時間が足りなくて墓参りが出来なかった場合のことを考慮して、墓を撮影した写真さえ用意していた。万事がこのように心遣いの徹底した人物なのである。さらに、彼の自宅の近所の、殆んど白人が利用するという高級住宅街のディスカウントショップで、土産物店の半額で買えるアフタークリスマスセールの商品をどっきり買い込み、自宅からダンボール箱を頂いて、帰国後の憂慮を片付ける。ヒロタ氏はそうした日程の途中を利用して真珠湾を見降ろす丘の上で車を止め、運命の日の様子や、しばし彼の苦労話を抜露してくれたりした。ヒロタ氏の自宅に着いて、やっとハワイに到着した実感が湧いてきた。しかも、これとて我々に休息の時間を与えるための彼の配慮なのである。一息ついたところで、彼は古いアルバムを展げて、母親コウさんの、ハイカラな洋装の写真や、ありし日の父親と一緒に自転車に乗った子供時代の写真や、学生時代の写真等を説明しながら見せてくれた。セピア色の、よく整理されたアルバムには七十五年間という歳月のうちの幸福な断片が記録され、私の好奇心を激しくそそらずにおかなかった。思えば、そうしたアルバムを探し求めるような仕事を今まで自分はやってきたのだ。
「ズット待ッテイタ!」ヒロタ氏の話は、両親の苦労を言葉少なに説明しているところであった。
「ウチノ母ハ、ドンナニ日本へ帰リタカッタカ……」
その言葉までたどり着くと、あとはもう言葉が出なかった。言棄にしようとしても、言葉の以前に彼の感情はあまりにも高まり、高潮したまま揮発してしまうのだ。グスン、と鼻をすすり、ヒロタ氏の眼に涙があふれた。そして一筋こぼれたのが見えた。従兄妹にあたる訪問者の佐藤光雄氏も義母もまた、こらえきれずに涙を流している。
「僕ハ、アンタタチガ来ルノヲ、ズット待ッテイタ……」
やっとの思いで、彼は言葉をつないだ。隣りにすわっていた私もまた、涙がボロボロとこぼれた。ヒロタ氏は、幾筋もの涙の流れおちるままに、ずっと無言であった。……私は、彼の言葉を聞くためにここまで来たのだったが、もはや言葉は不要であった。私は、そこで「時」が満ちあふれ、そして静止する瞬間を悟った。すべての気がかりや、保留されたままの感情や、つまらないこだわりが燃え尽きたと思った。人は、様々な旅をする。人生という時間の旅と、また空間の拡がりのなかを。
出発し、出会い、再会する。運命の岐路があり、迷路がある。彼の両親が、ハワイヘ渡ってから七十五年。若々しく見えるオサム・ヒロタ氏は、今年七十一才である。あの言葉を心に繰返すと、今また新たな涙が出る。私の人生においても、こんなに切ない感動的な言葉を聞いたことはなかった。二世という言葉の、何という宿業であることか。ここが日本であれ、ハワイであれ、何処であれ、場所はどこでもよかった。彼の母親の念願は、息子の心の中でいま成就されたのだ。帰郷の悲願は、待ち望まれた訪問者の到来によって、ついにはたされたのだ。そう私は信じたい。義母の涙と、佐藤光雄氏の涙とは、私の魂に注がれ、私の全身全霊を清めて、さらに励ますものとなった。ハワイヘの旅から帰ってすぐ、ビザ申請ももどかしく、今度はブラジルヘと出発したのは、私自身の転機をつかむためであるのと同時に、義母につながるもう一つの家族の枝であるブラジルの親類を訪問するためであった。
(「月刊はらのまち」一九八四年一月号収載)

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