桜田門外の変報

近代と言う未知の国々を背景にした西洋なるものが、日本に開国を迫っていた。
尊王と攘夷というイデオロギーの内戦が続いていた。
その年のなかばに、万延元年と改元される安政七年(一八六〇)の正月から、みちのく中村藩の御用商人吉田屋鈴木庄右衛門の手代源兵衛は新たな覚日記を記録しはじめた。この日記は安政三年(一八五六)から明治十一年(一八七八)まで記録している。この年の安政七年三月九日の記述にこうある。
○先日小高郷女場村間の宗山様中村より帰りかけ原ノ町先二而おいはき出逢丸々むきはき被取候風聞有之
当時の相馬地方の世情は、こんな風だった。ちかごろ原町あたりの街道で追い剥ぎが出没して小高なる菅野某が丸裸にされたとのこと。まことに物騒である。
江戸や上方での殺気立った雰囲気は知らず、眠ったような田舎暮らしにまどろんでいたであろう。
そこへ三月三日の桜田門外の変が、中村城下に飛び込んできた。
しかし、城下にその変事が達したのは七日もたってからのことである。
相馬郷土研究会発行の「吉田屋源兵衛覚え日記」第五冊の一、安政七年(万延元年)一月からの記録から拾ってみると、三月十一日の分にこう書いてある。
○去ル三日節句江戸に而井伊(直弼)掃部頭様御登城掛外桜田門前平市正様屋敷変ニ而水戸藩中壱人百姓躰ニ出立御供割ニ車寄御駕籠先ヲ両度供割致候処御供之衆中も何者やらんとおとろき一度ハ少々立退候ヲ見透し先百姓躰之者懐中ニ而鉄砲一発すると同し出立之衆中十八人先ノ百姓躰之衣服ぬき捨下ニハくさり帷子ニか襠当ニ鉢巻ニ身固メぞろぞろと打寄物ヲ不言打掛リ第一番ニ御駕籠ヲ目かけ刀ニ而駕籠ヲ突通しけれハ掃部頭様駕籠ノ戸明□□□御脇差ヲ御出之所ヲ右之悪者供打寄ート大刀ニ而□□留御首ヲ揚候由
文末に「此儀江戸御屋敷よりの御飛脚西街道下リニ而昨日着之処当時、殿様御国巡見ニ而御巡見先へ参り言上之由」とあることから、このニュースは十日に着いたことが判る。
堀部武「相双と常陸」による論考によると、「江戸までは早飛脚で其の日のうちに着いている。二日後の三月五日には早駕籠で詳報が届いている。江戸水戸間約百廿キロ、江戸中村間は約三百十キロである。中村までは御飛脚を使っているのだからおそくても三日、とうると三月六日か七日には届いてもよいと思われる。どうして七日もかかったのであろうか。問題は飛脚がいつ江戸屋敷を発ったかである」「事件当日あるいは翌四日頃とみてよい」「事件で混乱している水戸を避けて、奥州街道経由で本宮から阿武隈高原越えの奥州西街道を走って来たために時間がかかったのかも知れない」
ともあれ、江戸時代にはニュースは人の足のスピードで伝わった。
明治までもうあとわずか八年しかない時のことである。

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