○ 初見山の原町 朴念仁
一度見ても馬鹿一度見ないでも馬鹿と相場の極って居るてふ野馬追を生命のある中に一度は見て置かんと十日午前九時十四分初下りにて福し真を立つ此行既に馬鹿の名を冠せらる馬鹿な目に遭ふ事請合ならぬと予め臍を固めたるも笑止なり。
○県庁会計課の数氏と車を同ふしたればと註無聊に苦む事無くて午後の五時過ぎに原の町に着す直に社長松本孫右衛門氏の邸を訪ひ孫市氏に刺を通じて半日を語り暮らしたり庭に植込みたる樹木の葉の戦ぎにも雨風の漂ひるを覚えられたるが空はドンよりと湿勝ちにて明日の天気を思遣られたり。
○十一日早朝床を蹴って起上れば秋雨にも似たる淋しき雨蕭条として降りしきり何となく旅情をして切ならしむ朝餉を終るや直にゲッタ返しの道を東西に練歩きて初見の原の町を一わたり巡覧したるに別に目新しきものとは無けれど五軒置き十軒置きにうむどんそばの看板を出したる店のあるには一種異様の感を起したり。
○今日の競馬は午後の三時ならでは開始されざるべしと聞きつる程に先づ一休みせんものと一旅館に上り中食を認め夜具を借りて一睡を貪る快云ふべからず眼醒めて通路を眼下すに近郷近在より来れる群衆は雨を冒して右往左往せる為め午前とは事変りて頗る活気を帯び居たり。
○街道を南に取りて行くに沿道の客旅館の楼上には昼休みの客らしきが大分入込みて女中連の忙し気に奔走せるを見受けたり大道香具師の散在せるあり剣舞芝居見せ物の類また三四あり一絵葉書屋の店頭には雲岳と称する老画工が筆を揮って馬の絵を描き居たるが頗る風流気に見えたり。
○夜の森公園に至るに丘上人稀にして転た寂漠四隣を包める樹木は露を含んで積翠溢らんかと疑まれ二三の記念碑は厳かに建ち東宮殿下の馬追御台覧の御座所は鉄柵を以て構はれ居たり丘を下れば馬場の傍らには赤十字支部出張所の天幕あり黒衣の看護婦四五早くも詰かけて何や彼と準備に忙はし。
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