大正元年 原町に18台 自転車は最先端のモータリゼーションだった
地方輪界の歩み 明治30年代に初めて登場(平成5年2月あぶくま新報)
岡田輪業店の三代目、岡田重康さん(39)は、現在の店舗に改装した時に自宅の蔵から見つけた「地方輪界の歩み」という雑誌を大切に保管。同書は全国版の自転車業界の歴史をつづったもので、発行元は日本輪界界新聞社。現在の自転車関係の新聞雑誌は時代の流れで横文字のタイトルが多いため、どれが日本輪業新聞の後継紙なのか判らないうえ、同冊子の発行年度も記載がないため不明。しかし足ふみペダル式のバイク等の広告が載っていることや、紙質の粗悪さ、また文章背景から、戦後の復興期に出版されたものと推察される。
もちろん福島県内に関する記述もあり、浜通り地区にも言及。執筆者は不明だが、かなり詳しい筆致で面白くおかしく浜通り原町、小高、浪江、相馬近辺の自転車業界の暑気の様子を活写している。
これによると原町で最初に自転車に乗ったのは天野栄蔵という人物で明治三十年頃のこと。大正元年には原町の自転車保有台数は18台であったという。銀輪業界の事始め。次に全文を転載する。
浜通りで自転車業は平町に誕生した。金物問屋商店(現市長諸橋久太郎氏の父)は明治35年に自転車取次ぎを始めた。クリブランド号、デートン号などであった。また二丁目の中野自転車部が36年八月に東京双輪の代理店となったが自転車専業となったのは明治42、3年頃、修繕をやっていた鉄工屋田村商会田村三郎が始めてである。次いで鍛冶の清原紹介が自転車屋となり、45年には身との金沢源介の弟の酒田金物屋で番頭をしていた高野得助氏がはじまった。原之町では明治三十年頃に煙草製造している天野栄蔵氏が二輪車に初めて乗って世人を驚かし、ついで石油、肥料商店の山東の主人、松永七之助氏や山田医者、また福島県商工会議所の会頭などにもなった門馬直記氏などが主な乗り手であった。大場鉄工所や伊藤鉄工所などが自転車を扱い、岡田重治氏は伊藤鉄工所と懇意でその選手として自転車の宣伝に一役かっていた。
独立営業したのは大正元年であるが、その時原之町の保有台数は十八台だった。農家には殆どなかった。スピーク一本三十銭、パンク二十五銭の頃。
小高町では稲本武八郎氏が業者の先祖である。県立相馬農蚕学校を卒えた氏は宇都宮市大工町の名望家で自転車商の塩田商店(塩田蓬一郎氏)へ見習いに出て修行し、明治44年3月15日開業した。浪江町では営林署所長であった佐々木長之助氏(県議佐々木智氏の父)がやめて自転車商となった。仙台市山下の金満家の息子、自転車選手であった横山常吉氏は相馬中村で自転車業を始めた。これら諸々の人々が狭い浜通り地帯を北に南にと活躍したそのころ、電気学校を出て渡満中の織田安次郎氏は満州で富籤二万円? に当たり浜通り随一の卸となった。相馬中村の横山氏はやがて仙台に移り東北輪業商店となったことことはよく人の知るところである」
岡田さんは「暇な時に呼んでは楽しんでいます。金物屋や鍛冶屋が自転車を取り次いだことなど、初期の業界の様子がよくわかる。祖父の名前も載っているので面白い」と語っている。
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