1910 地球最後の年の上洛野馬追
明治43年 モシモシ電話開通して商売繁盛

明治42年8月に韓国皇太子は福島を訪問した。伊藤博文とともに。
韓太子は、秋の福島路を風のように去った。
伊藤博文を歓迎しようという会は各地で開かれた。しかし韓太子も伊藤も若松には宿泊していない。伊藤は歓迎式に招待されていたが、時間的余裕がない、と断っている。
薩長が主力の西軍・連合軍に最後まで抵抗した会津は、その後の百年ずっと薩長政府に怨まれ続けた。会津にはそれをまた怨む気風が残っている。時間的余裕より、伊藤は暗殺を怖れた。いまだ会津は敵地の中の敵地。両者の間の乖離は大きい。
韓国皇太子も伊藤も去った明治42年の10月26日。ハルビンの駅頭で、伊藤は韓国人安重根(アン・ジュングン)の縦断に倒された。これも踏みにじられた国の恨みである。
安重根は日本では「凶漢」と表現され、テロリストのイメージに彩られているが、朝鮮韓国では祖国解放の魁となって歴史に名を燦然と輝かせる英雄である。韓国に二百ウォン切手には安重根の肖像が印刷されており、韓国から日本への航空便の最低料金がちょうど二百ウォンかかる。隣国のハングル文字を読めない日本人は、知らない所でこの英雄を拝しているのである。しかしこれは、日本人が安い安いと言って旅行や買い物に来ては、日韓関係史を知らずに伊藤博文の肖像が印刷された千円札を、これ見よがしに振りかざしている無神経さに対する静かな報復なのではなかろうか。
28日の新聞には「韓太子の憤怒」と出し、「聞く処によれば凶変始めて麻布鳥居坂なる韓国皇太子殿下の許に達するや殿下には余りの驚愕一方ならず韓語にて何事か連呼し又其の犯人が本国人なりと聞くや御目を怒らせ給ひて憤怒の情に堪えざるものの如く又御目に涙を湛えられて御嘆きあそばされたりと」と報じている。
韓国皇太子は、二ヶ月前の東北旅行でたえず一緒であった老伊藤公をしのび泪したという。もともと彼は日本政府の人質であり操り人形である。しかし人間である以上、私人の彼にも感情はある。ところで翌年の日韓併合を、公人としての韓太子はどう迎え入れたであろう。
さて、われらの小さな町の歴史に戻る。
「騎馬武者百五十 東都に推し登らんとす」の記事に見える明治43年の上洛の馬追について続ける。筆者は擬山という記者である。
桜田門外の変、と呼ばれる大老井伊直弼の暗殺からちょうど50年。安政の大獄という大弾圧に対する、反幕府勢力のカウンターパンチである。日本の近代化への扉を大きく開けた事件であった。彼ら西軍は、これを引き継ぐ形で倒幕運動を進め、ついに新政府樹立を果たし、欧米列強に伍して近代国家の基礎を固めつつあった。武士の支配する農村国家から、富国強兵によって軍備をととのえ、日清戦争、日露戦争を経て、ようやくのことで革命の半世紀をふりかえる時期を迎えた。
桜田十八烈士の五十年記念祭、という一大イベントが企画され、そのアトラクションに、2年前に皇太子が巡啓した相馬野馬追祭が抜擢、推薦されたのである。
明治41年の皇太子巡啓と台覧、42年の韓国皇太子の下り列車原ノ町駅一時停車による臨時野馬追アトラクション台覧という栄誉を誇り、このうえ全国に相馬野馬追祭を知らしめようと焦慮する郷土の人々のもとへ、今度は首都東京での実演の呼び声がかかり、郷党は狂気し小躍りした。
「洛」とは京都の意である。上洛とは従って「京の都に上る」の筈だが、明治43年の「上洛野馬追」とは、「遷都した東京への上京野馬追」の意味であろう。かくして、ついに史上初の野馬追祭の出前、天皇のお膝元・東都での野馬追が実現したのである。(「はらのまち100年史」1997)
4.17.民報 上洛野馬追記 志賀擬山
今二日旧三月三日東都靖国神社に行わるる彼の万延元年時の大老を桜田門外に倒せし桜田十八烈士の五十年祭典葬祭土方伯以下の懇望に依り相馬野馬追祭典の出馬の有志百五十に限り甲冑に身を固め騎馬に打ち乗り遙々東都に推し登りて十八烈士の霊前に参拝する事となりたり今其趣旨其他を聞くに由来相馬旧藩は其学派を水戸と同うし維新の際の如きは藩士西貫之助を始めとして所謂水戸浪士と行動せしものの少なからず又勤皇の大義を唱えて各藩を遊歴し異郷の空に客死せしもの三十余名に及び」うんぬん。
「而して右出馬方に就いては佐藤徳助、半谷清寿、藤崎重行、遠藤六之助、佐藤政蔵其の他の諸氏専ら事に当りて奔走し四月二日」「諸氏原町停車場前丸屋旅館に集合して万般の事を協議したるが総裁より贈らるる可き筈の手金などは辞退し汽車賃宿泊料の外は一切自弁を以て出馬し誠意誠心十八烈士の霊を慰むるに努むべく申し合ひをなしたり又東京に於ける動作を聞くに百五十の相馬武士は十一日原町一番の上り列車に搭じて上京し上野停車場前山城屋、名倉屋に分宿十二日早朝甲冑武具を固め上野不忍池畔に勢揃ひをなし馬場の周囲を乗り廻し更に行列を整ひて上野広小路を真直に万世橋、須田町、小川町を経て靖国神社に御参拝夫れより二重橋前に至りて薨去を拝し更に幸町なる旧主相馬子爵家に至りて旧君に謁しここにて馬を乗り捨て特に之等相馬武士の為めに設けられたる二十台の花電車に乗じて東京市中を練り廻す由なるが実に今回の祭典中第一の壮観たるべしと言ふ左に行列順序を掲ぐ(略)」
因に今回の出馬希望非常に多ければ中村、原町、小高の各地に於いて目下武具其の他の検査選抜を行ひつつあり」
4.18.民報「上洛野馬追雑記」など、これらの記事は、原町出身の志賀儀三郎が民報記者として同行取材している。志賀千代蔵と兄弟で民報社に勤めていた。原町はホームグラウンドのようなものであり、野馬追を紹介する筆にも力が入った。この年、原町に電話が開通し、大いに商売が繁盛した。有名なハレー彗星の大接近の年にあたり、世界中が世界の終わりだと騒がれた。明治43年とは、そんな年だった。
▲参考 志賀擬山(しが・ぎざん)原町生まれのジャーナリスト。本名志賀儀三郎(しが・ぎさぶろう)
福島民報は現在まで存続する福島県内で最古の新聞であるが、創刊当時は経営困難のためたえず廃刊の危機に見舞われていた。これを救ったのが旧相馬藩(南新田村)の名家に生まれた松本孫右衛門だ。代々襲名する名で、藩主から功により特別に酒造業を許された家柄。松本仙蔵を父に明治六年生まれ。幼名を碩蔵といった。東京物理学校に学んだが、父の死去により帰郷。浜通り地方は常磐鉄道開設の景気に湧いていた。土木業に開眼して鉄道工事で成功。その財力をみこまれ請われて倒産寸前の民報社長になり、見事に立て直した。明治三二年に主幹として迎えられ、三三年に二代目社長に就任。個人経営とし、同郷の後輩でのちの原町町長松本良七(亀井文夫監督の父親)を主幹とした。自由党政治機関紙であった民報を商業紙に改革した。無料配布していた株主からも購読料をとり、県報を請け負って刷り込むなどの営業努力によって収益を上げて実績の実をあげ、その手腕が評価された。三星炭坑社長などの事業家と政治家の二足の草鞋で成功し、町会議員・県会議員をつとめ、政友会が旗揚げすると代議士となり、自分の子分を応援して交互に出馬するなど気配りの人だった。政友会院内総務までつとめ、昭和二十三年死去。
大正期の一時期、松本社長の代理をつとめた副社長志賀千代蔵も同郷原町の後輩。それまでの旧式印刷機を廃して最新式輪転機を導入して技術革新した。千代蔵の弟志賀儀三郎も明治三九年に入社以来、大正八年まで十三年つとめ平支局長に。大正九年に原町支局長・政友会支部幹事長に就任。松本の代理で千代蔵が社長になっていた間、社員が退社した時に一緒に辞職。見込まれて福島新聞に引き抜かれた時には兄から勘当されたが、昭和九年に原町助役に就任。十年には民報に復帰して理事となった。惜しむらくは福島市に転居して間もなく死去。葬儀は故郷の原町で執り行った。
(二上編「福島民報を救った松本孫右衛門」より)

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