(明治41年10月)
観艦旅行(一)ひげ郎

兄弟三人揃ふて、旅行を仕てみたいとは、年来の希望であった、それが一夕の戯談に花が咲いて、思ひがけなく決行する事となった、三人兄弟とは誰ぞ、一番兄は言はずかなのひげ郎で第二番目は灰声かくれもなきハイ郎弟は涛声文壇の美声家として知られたるモンケーである
三人は趣味趣向が一致して居る、だから話が合ふ、体力も一致して居る、だから運動も共にする、ひげとハイが角力を取ればハイに勝星多くハイとモンが角力とモンが勝ち、モントひげではひげが勝つと云ふことになって居る、ハイの最も得意とする処は水泳で一名河伯と称せられ、モンは優に百貫を挙げ牛と呼はる、而してひげは脛長くして駈歩に妙を得て居る、今日即ち十月十六日、尋常小学校の運動会があった、来賓の杓子に鞠を載せての競争には、ひげは一等賞を得て喝采を博したのである。
夜の二時発だから早やく寝よふと思ふて居ると、モンケーが行って来た、服を取りに行くの着るので夜もふけた、有明の月で停車場に向ふ靴の音が夜の静かさを破る、ハイ郎既に停車場に在り、定刻より少こし遅れて二時二十分発車、眠むい晩である。
伊出といふ処に新らしい停車場が出来るので測量中だとハイが云ふと、側の人が地盛中だと云ふ、ハイもさる者、測量して地盛中だと負け惜しみを云ふ、押しが強よいとひげが笑ふ、此処から久ノ浜の間にトンネルが幾個あると側の人が云ふ、ハイが首をひねって七ツだと答ふ、九ツだと争ふ、違った者が梨を買ふ事にしよふと云ふ、ハイ負けそふになり、ポンと手を拍ちアー小さいのが二つあったと降参しながらも負け惜しみを云ふ。
何処の駅で太陽が見えるだらふと云ふ、助川だと云ふてハイまた負けを取る
イヤハヤお気の毒、松と海と、旭との配合は何とも云ひぬながめである、
千波沼の水は涸れて、梅公園僅に、紅葉せるを見る、朝の風冷めたく身にしみて面白き話も出ず、
上野に着く、米艦隊が来ると言ふので西郷さんも水を浴びせられて御化粧中だ、動物園では猿の子の可愛らしいのが目につく、特にモンケーが見どれたとしやれを云ふ、団子坂は菊人形が大評判、また蕾が多い、夜の浅草なども色々面白ろい事はあるが目的が先なので一向、参り気が仕ない、疲れたので楽に寝た。

(二)
十八日午前小石川に河合氏を訪ね、豚で中食を馳走になり女子大学に案内され、それから三越を見た、日比谷公園は紅白の天幕を張って、歓迎の準備中、東京市内は頗る所負けず劣らず装飾を、こらしての歓迎ぶりは、いらいものである
午後七時に新橋を発し鶴見を過ぐれば—-
○艦隊のイルミネーション日米の艦隊三十余隻が、凡て火となって、湾内に浮かんだ壮観と云はふか偉観と云はふか、それに神奈川と横浜とで打ち揚げたる煙火は、絶間なく天空を彩って居る、走る窓から見まかくれに、ながめながら愈々横浜停車場に近づくに汽車に故障が出来て、止まるに場所もあらふに家並の陰で、煙火は音ばかり、列車の中では皆騒はぐ、そのもどかしい事ったら無かった、二十分以上またされた、
桟橋に出て見ると、各波止場もイルミネーションで飾りつけてある煙火とそれが水に写る水兵は其辺に上陸して天幕の歓迎を受けて居る、学生通訳が其処此処に世話を仕し居る、良い加減の先生達も見える、国旗や絹団扇や花傘や何やかや、御土産を一かかい位つつ買ってニコニコ帰って来る者もある、愛らしい顔の水兵服の水兵、黒んぼの水兵、ピカピカの将校等何れも物珍しげに見える、周布神奈川県知事の夜会のおよばれであらふ、将校連が馬車や腕車で引きもきらず、提灯行列は路の要して万歳を叫ぶ、アー夜の横浜、実に是が開港以来の快挙と云ふてもよいであらふ
三軒許り旅館を断られて四軒目で一行五人十畳の間を借り受けた、トメッー とガルリーも来る、ガルハーは通訳の為めに先きに来て居ったのである、原の町野の馬追の晩は、ごろ寝が五十銭で食わせて九十銭だと云ふ事であったが、さすが横浜は、片はたごで、一円二十銭である。

(第三信)
使い方も分からぬ物に珍らしまぎれに買ふた処は実に無邪気で面白ろい掃除がすんで日陰の処に、ゴロゴロ寝コロンで休んでるものもある、買ったハンカチーフなどを広ろげて何かささやいて喜んでるものもある、何しろ、一万六千噸と云ふ大艦であるから一寸見た位で何が何やら訳かった物ではない、迎いの船が来たので辞して帰った、此のコン子チカットに対したのが三笠で鼠色だけに堅たそふに見える、対馬海峡でバルチック艦隊を粉砕したと思ふと一種の満足を覚えざるを得ない
次にはガタンビシンと騒がしい音がして居る、何事かと見る食堂である、大方食事がすんで今食卓を片付ける処だ、皆畳んで天井にかける、仕かけになって居る、次に将校次に兵士の賄場次には兵器庫、此処には陸戦隊用の新式六連発銃や背嚢から剣其他何でも整ふて居る、一方には飲用水の樽の置場がある、肉類がある、馬鈴薯たまねぎがある、パンの倉庫もある、上甲板に登ると指揮官の室がある、そこには七ツ許り電話の装置がある、側にサーチライトがある、そこから甲板を見下ろすと、日本の商人が入込んで水兵が百四五十人そこ此処を取まいて、上陸用の靴を買ふ土産物は団扇や何かを買ふ菓子や果物、ハンカチーフあらゆる物を買ふて居る、一人の水兵が三寸許りの尺度用の物で先きが二又の刃のついた物を買って来て何する物だらふと問はれた、こっちも良く分からんので不得要領の答を仕た。
一人の青年が、三笠とコン子クチカットで何れが強いだらふと云ひ出した、戦って見なければ分かるまいと、一人の米人が答いたので一同大笑となった、戦争する事などは無論無い、そふして何れとも極まらぬ方が幸福だと云ふた者がある、一同は是に賛助した、単に是れ丈けの会話ではあるが米国大西洋艦隊が遥々東洋迄廻航し日本艦隊が是れを迎ひ、東京横浜の市民否、日本帝国臣民が挙って是れを歓迎して居る其間の消息を説明し得て余りあるではあるまいか。
観艦記は茲に筆とめ、日光山の奥に紅葉狩でも試むる事としょふ、その横路日記がうまく成立するや否や
(原文のまま。)
 注。明治四十三年に原町にも電気がやってきた。野馬追の夜景には夜ノ森公園が電飾された。おそらくは政蔵の建言があっただろう。観艦式での夜景の見事さの体験があったのではなかろうか。

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