明治41年 徳助ひげ郎、原町を大いに売り出す
「はらのまち」(佐藤ひげ郎作歌 一九註釈)明治41年
佐藤徳助は、明治41年に佐藤ひげ郎政蔵の歌に注釈をつけた「はらのまち」と題するパンフレットも発行している。従兄弟の二人は協力しあって原町宣伝に尽力した。
発兌元 厚積堂(相馬郡原町本町二丁目)というのは、「野馬追「と同じ。
明治四十一年四月五日印刷、四月十日発行、明治四十二年七月十日再版。
著作兼発行者佐藤徳助
印刷人 水野勝蔵(仙台市柳町三拾五番地)
印刷所 労働会印刷部(仙台市東八番百八拾四番地)
(定価金拾五銭)
序文にいう。
「ひげ郎がここに筆をとって俗謡を記すに至った動機は外ではない、国には国歌あり、地方には地方歌なかるっべからずと云ふにある。
唱歌は譜に於て飽き足らず所あり、俗謡の多くは意味に於て卑しい所がある。そこで自分は俗謡調を籍り誰でも唄ひ得る、亦同時に地方を照会(紹介)することの出来る様な文句を考いた次第である。此れサノサぶしを主とした所以である。
はらのまち ひげ郎 作唄 一九註釈
一つには 広く知られし相馬の原の町
西に国見山二つ森
東亜米利加ネー海ひとへ
南北交通自在の汽車の発着所
野馬追の祭りと共に著名なる原の町の地勢は相馬郡の中央に位し西に国見山初森二つ森の山脈峨々として連互し東は森漫浩蕩たる太平洋に
莅み対岸の地は即ち亜米利加洲にて遥に三千里を隔つれ共渋佐浜より船を艤して直行すれば「サンフランシスコ」港に達する事を得べし而して第十五号国道と海岸線鉄道とは南北に通じ特に鉄道停車場は汽車の発着場となりたれば朝早く発し遅夜おそく帰るを以て用達の便よろしく毎停車時間は五分以上にて且つ下車乗継の便もあり又伊達の川俣に至らんとせば大原街道あり田村の見張る方面に赴かんと欲せば馬場街道あるが故に交通運輸二つながら便利にして浜街道中尤も枢要の土地なりとす
二つには 深きいわれの相馬の御野馬追
年々七月十一十二日
よろいかぶとのネー武者百二千騎
三千世界にまたと無い祭り
(二以下、註釈略)
三つには 南一面雲雀か原よ
春は菫に花菖蒲
秋は七草ネー花盛り
鳴くや鈴虫きりぎりす
四つには 夜の森公園桜の名所
つつじ東公園見はらし御本陣
紳士淑女がネー手をとりて
花の園遊会おたのしみ
五つには いたる所は皆桑畑
養蚕製糸に機業乾燥場
黒い烟む吐くネー煙突の
高くきこいし事業の発展地
六つには 昔しかたぎの正直に
二十世紀の智識を吸収し
取引機関もネー確実に
ほんに相馬の商業中心地
七つには 夏も忘るる渋佐の浜ら
風は涼しく波きよく
沖の漁船ネー帰りくりゃ
生きたさかなで浜料理
八つには やたら広がる本町は五丁目まで
旭 太之助 初音 栄町
新町 小川町ネー幸町
設計最中の新市街
九つにゃ 米の良いのが東北で
薪炭木材まゆ生糸
輸出産額ネー年毎に
増して膨張の原の町
十とかぞえてネー
数ぞへつくせぬ配所旧蹟や
秋は新井田川鮭の漁
見たりたべたりネー遊んだり
相馬よいとこ原の町
十一にゃ 位置は夜の森公園
麓廻りは二分の一哩
花と紅葉のネー折々に
開らく原の町競馬場
十二には 二度と行くまい相馬の原の町
行けば帰りがいやになる
いっそこのままネーいつまでも
第二の故郷とあきらめて

サノサ 清風舘からネー、松を隔てて沖ながむれば
もやを分けくる、あまの舟、なぎさにリボンのネー貝ひろい
絶えず、きこえる、さざめき、浪の音
川口に、船うかべて、ただよへば
水のまにまに流れ山、ひろげて帆にするネーインバネス
風を、はらんで、うみだす、歌のかず

「ネー」の部分だけ原本では「子ー」の表記になっているのを読みやすく改訂した。二上注。

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