明治40年 孵化技術を導入 新田川鮭漁の賑わい
新田川の鮭漁業は、古くは泉、北泉、上渋佐、下渋佐の四部落が行って居たが、特定の漁師集団が出現すると漁業権を得て、泉十一面観音を分霊して慶長十一年(1659)頃に明神様と称して大磯地区に鎮座。信仰を集めたという。
相馬藩では運上川と称して年に八両三分を上納させていたが、のち鮭八百十六本半を代納した。
明治になって神仏分離令により(明神は仏を守護する神であるため)改めて明神を竹入赤鷲神社と改名。赤鷲が鮭をくわえて飛翔する姿を漁民が目撃した故事による。
明治二十六年以降は産卵保護が行われたが、それ以前にはただ乱獲するばかりの漁法だった。明治四十年には孵化技術を導入。四十三年には一網で二千七百尾という漁獲をなすに至る。大正にいたるまで一大隆盛をきわめ、福島県知事の視察などが相次ぐ。最盛期の観を呈する。
しかし戦後、昭和三十年代には「市誘致の丸三製糸工場の汚水により伝統ある新田川も破壊的な打撃を受け、川全体がヘドロ化し、鮭、及び稚魚もほとんど姿を消し、死の川となり一部では漁業権の買収の話などが上がり深刻な状態であった」(鮭川関係者)
要望により県市の調査が行われ、補償金支払いや汚水専用排水路の設置の陳情。実現などで苦悩した時代は昭和四十年に至って生活雑排水の終末処理場の完成や、同年の大磯ゴルフ場開設による赤鷲神社移転で転機を迎える。
昭和五十六年、平成元年にも神社を移転。
組合では平成三年に冷蔵庫を購入。販売所の改修などをほどこし、観光漁業はシーズン中人気と賑わいを取り戻している。
(あぶくま新報・平成5年)
明治36年発行の「原釜案内」に付記された「原ノ町情勢」によると、
「○新田川鮭漁場 毎年鮭の漁季に至れば観者両岸に絡繹たり、漁区は渋佐海水浴場の北にありて町を距ること一里。」
とみえる。
明治41年発行の佐藤徳輔「はらのまち」によれば、
「最も壮観人を驚かすものは新田川の鮭漁なり此の漁場は原の町より約三十里車にて至るを得毎年十月十一月の交鮭漁数千群をなして昼夜海口より泝り川中に上下遊泳するものを一大網器を以て一挙に数百尾づつ漁することなれば壮観比類なし魚種の良好なること日本第一なりと云ふ此の漁場は育種場なるを以て別に人工孵化法の設備あり明治四十年には七十万粒四十一年には百万粒の魚卵を孵化したり之を三四寸程に育てて川に放ちて四五年の後には必らず放たれたる川筋に泝る時節には放ちたるものの一割と計算するも人工孵化の為めに是迄より約七万尾及乃至十万尾の多くを捕ふ可きなり亦盛なりと謂ふ可し蓋し河畔を逍遥して魚群の遊泳するを見次で
捕漁の壮挙を観而して新鮮なる鮭漁を味ふ誰か愉快を感ぜららん真に相馬よい所而して百般の事業を産み出す原の町に腹否原は実に偉大なりと謂う可し。」
としるしている。
大正7年の海岸タイムス社刊「原町地方案内」によれば、次のようだ。
「▲新田川の鮭繁殖事業 当時の漁業中最も盛なるものを新田川鮭繁殖事業と為す。当町及高平村の組合事業にして明治二十七年の創立に係り人工孵化場及天然産卵保護場を設けて鮭の繁殖を計り、成魚を捕獲す。其数毎年二万尾内外、当町漁業の最となす。」
明治末期の新田川のにぎわいは、当時の原町の人々の誇りであった。
「新田川の鮭漁」(明治41年10月27日・民報)
「相馬郡原町付近なる任だ川は本県中鮭の養殖に好個の箇所なるは人の知る処にして旧相馬藩主が天然孵化に選定して以来此地鮭の繁殖非常に多く本県庁亦選んで此地を人工孵化場たらしめたり、地は原町停車場の東方約三十町にして其漁獲量最も多きは毎年九月より十一月の間にして此期間は鮭漁幾千尾水中に浮遊し其壮観例ふるにも無き光景を呈す同地には漁業組合の組織あり 浜須安記氏を組合長に推し、此れが漁獲を為しつつあり得たるは東京以北の各地に輸出され居るが近年三年間の御画数を見るに其三十九年に於いて一日五十円平均なりしもの昨年に至り七十円に増加し本年に到って非常に増加し今や一日平均七百円の漁獲を見るに至れり、去る二十三日鉄道長仙台営業事務所長仙台駅名が河北新聞記者の一行漁鮭の状況を視察せし折の如き第二回目網 八百五十本の大量あり其前日の漁獲・・・・於いて五百七十五円上川において旧五円なりし由其人工孵化場に於いては本年三百五十万尾の養殖を試み石城郡鮫川よりも三十五万尾の注文に接し居る由如何に盛況なるかを察知するに難からざる可く此の壮観せ異郷を見んとして来り集ふ者非常に多く昨二十七日の漁日の如き遠く水戸より鉄道営業事務所長及び運転課長同地新聞記者一行の来遊ありしと謂ふ如斯なれば同地にては此等遊覧者の便を計り鮭川弁当を売出し酒煙草等の用意あり鈴木権之助氏専ら之が接待に当り凡ての便益を計りつつある由秋光河に満つるの時此地に一遊を試むるも一興なるべし」