明治37年 日露戦争報道と野馬追
日露戦争の開戦の前年。明治36年末に、不思議な現象が起こった。
福島に火の玉が出現して驚かせた。また流星が日本の空を横切って燃え尽きた。庶民はこれを戦争の前兆として受け止めた。早々と戦勝パレードが行われた記事がある。明治37年2月17日民友新聞。
「○中村町ちょうちん行列 相馬郡中村にては役場の通達により各家より一人つつ出で去る十三日午後五時より提灯行列を組織し各町を巡り消防組にて模造せる軍艦に警察署長及部長並びに消防組頭等乗込市中到る所歓呼し今回召集せられし軍人の家前に到れば万々歳を祝し出列人数実に一千五百人の多きに及べり」
つづいて原町でも、これに倣って提灯行列が行われた。明治37年3月18日民友。
「○原の町の提灯行列 去十月旅順口に於ける我が戦捷を祝せん為め十五日原の町に於て盛大なる提灯行列を為したり同消防手の意匠に成れる模造軍艦二隻に満艦飾を施し之に無数の球燈を吊下し午前八時頃より消防手学生及町民等三島神社前に整列し提灯各一個を携ひて町内を練り歩きたるが万歳歓呼の声は祝砲及音楽隊の声と相応して天地を振動する程にて勇しなんと云ふ許りなし同日は目下興行中の壮士俳優軍服を着して之に従ひ殊に停車場駅員数十名が海軍将校に扮して一行に加はりたるは頗る偉観なりしと」
小高町では、半谷清寿氏が与論をリードした。明治37年2月18日民友。
「○半谷清寿氏の檄 相馬半実業界の大立者なる半谷清寿氏は戦時の実業家として執るべき態度責任に就き大に感ずる所ある去十日を以て絹織物第五部内の同業者一同に宛て五部長の名義を以て左の如き檄を発したり
我が征露軍は初一戦に大勝を奏し露の東洋艦隊はここに全滅に帰せるものの如く時局の大勢殆ど定まりたるを以て吾等機業家の如きも安んじて其業に就くを得るものに至れる偏に我 帝の威徳と我軍の勇武なる賜に有之候へば其臣民たるもの須からく之れが万分一に報酬へさるべからざる事論を持たず候ここを以て吾等は自今互に出征軍人の心を以て心とし務めて其業に従ひ奪って之が軍資を出すべきは当然の義務に有之候」云々。
国中が日露戦争に沸き、戦勝に酔った。緒戦から、国民は提灯行列をなして祝った。
明治38年4月3日「○戦勝祈祷会 相馬郡原町新祥寺に於て去三十一日渡辺六尺氏発起となり僧侶十数名を招き盛んなる戦勝祈祷会を行ひたり▲相馬郡新地村字小川二羽神社宮小野八十松氏は三月九日より三週間昼夜同神社に於いて 両陛下の万歳陸海軍万歳並びに出征軍人戦勝祈念会を執行満願当日には出生軍人家族へ守護札を配布せり▲相馬郡石神村大字押釜高座神社にては地方の神職数名相会し去月三十一日皇軍戦勝の祈祷祭を執行せしが当日は早朝先づ祭壇を整ひ佐藤祭主の祝詞及宣戦詔勅の奉読村長各区長の玉串献上終って小沢村長の発声にて 天皇陛下陸海軍万歳を三唱し尚二三氏の演説ありて散会したりと」

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