明治32年 松本孫右衛門、窮地の福島民報を救って社長になる

松本醸造の松本欽一氏が健在中にインタビューした文章がある。
「孫右衛門は、演説は上手ではありませんでしたよ。寡黙で、威厳があって、子供の私などはこわくて近づけなかった。」
後代の松本酒店の主人である松本欽一氏はこう語る。
「しゃべる時はトツトツでしたな。人に絶対頭を下げたことがない。私は頭を下げたのを見たことがありません。けれどもまあ、当時はそれでよかったんですかね。」
松本孫右衛門は、原町の旧家松本家に生まれた。明治翌六年一月のことである。幼名を碩蔵といい、父祖の名孫右衛門を襲名し、父の死後、松本醸造の仕事を継いだ。
最年少で県会議員となり、のちに政友会から代議士に選出された。
彼は立志伝中の人物といえるかも知れない。郷里の原町高等小学校を卒業後、上京して物理を学んだ。
在学中から建築業に励んで頭角を現し、原ノ町駅ほか常磐線(当時は磐城線)の建設では大活躍した。
このほか石城郡で三ツ星炭鉱株式会社を創設し尽力した。これを筆頭に、明治三十九年、同士あいつのって日本醤油株式会社を創立、東洋麻糸紡織株式会社を興して社長となるなど、事業家としての手腕には見事なものがあった。このほかにも、北海牧畜、朝鮮拓殖、南洋ゴム、大日本炭鉱、東京取引所、大阪新報、都新聞等々の社長、頭取になり、重役をかねるものはそれ以上の数にのぼる。
孫右衛門は実業界での活躍と同時に政界での躍進でも目覚しいものがあった。

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