明治31年 相馬中学事件
ちょうど百年前の事件である。
一八九五年(明治二八)五月十五日、宇多、行方、標葉、楢葉の四郡各町村一命ずつの委員によって構成された中学校設置協議委員かが原町で開催された。
中学校といっても明治の話だから旧制中学。現在の相馬高校にあたる、その前身の学校が設立される頃のことだ。
その相馬中学は、実は原町に建設されるはずだった。校舎建設の位置について委員中、原町を適当とするものと小高を適当とするものの二説に別れ、少数差で原町に決定した。
翌六月、相馬尋常中学校設置願が県知事宛に提出されたが、中学校増設に差煮を示していた前知事に代わった公認の原保太郎はこれを却下。相双四郡の中学校原町誘致運動は失敗に帰した。
翌二十九年になって宇多・行方の二郡は相馬郡として統一された。再び運動が再開。熊川相馬郡長は相馬郡だけで運動しようとした。これに対して旧標葉郡は設立位置を原町にするのでなければ協議に応じないことを決めた。協議会は結局相馬郡だけで中学校を設置すると決定、再び設置位置をめぐって町村間で紛糾が起こる。こんどは原町と中村の二派に分かれた。
双葉郡は地理的に近い原町に賛成して寄付運動した。
斎藤笹舟の「相馬郷土文化志」は「相馬高等学校その沿革」に次のように書いている。
「最初明治二十九年九月、中学校設置運動委員三十人選挙を行い、その委員中より交渉委員を行いました。守屋正人・西山権作・野崎亀喜が当選いたしました。これは原町に建設とするに反対運動の委員であります。明治三十年二月時の知事安楽兼道宛に訴願書を提出しました。訴願人は守屋正人・西山権作・島田吉次郎の四氏でありました。明治三十年七月二十二日見解議長目黒重真(新地出身)、西山旅館に来り、訴願人四人を招致し、山中やに渉り訴願書取り下げの懇請を試みましたが、素より堅き決心の現れなれば応ずるの色はありません。同年九月郡長熊川祥長は西山旅館に、守屋・新妻・西山・島田を招致し、県知事は県下五中学建設の計画を樹て県会に提案せんとす。随って組合建設の中学校は自然中止の外はないであらう。依って前に提出せる訴願は取下げるに如かず、と懇愉に及んだので四名これを諾し、同年十月十七日県立中学校建設の議となり、委員選挙を行いました処、富田実辰・四本松知義・馬場勝之進・斎藤力長・木幡素清・守屋正人・佐藤与八・西山権作・島田吉次郎・新妻重当の十一名当選致しました。その内常設委員、即ち出県委員の選挙を行った処、守屋・西山・新妻の三氏当選せるが、新妻氏当選せるが、新妻氏自体せるがため島田吉次郎氏補選に及びました。前の委員同年十一月県会期間中福島に滞在すること約三十日、かく猛烈なる運動に着手すると雖も事情急なるにより同月二十六日更に委員に増し、出県を促しました。此に泉田胤信・富田実辰・四本松知義・新妻周蔵の五氏、五日若しくは七日福島に滞在し、強烈なる運動の結果、同月二十六日中村の地は適所なりと県会通過し、乃ち県会に於て偉大なる努力を奏したるは草野忠人・目黒重真・白井貞蔵でありました。
かくして安楽知事は、明治三一年四月一日より信夫郡清水村、相馬郡中村町に、福島県第三尋常中学校(のちの県立福島高校)と福島県第四尋常中学校(のちの相馬高校)を設置すると告示。
告示が発表されるや「原町地方の人民は激高甚だしく飽くまでこれを反対の運動を為さんと決心」「旧中の郷五ヶ村の町村会議員及びその有力家は種々会合熟議の末、左の二か条を評議決定せんとするの勢に立ち至りたり
一、相馬中学校には子弟を就学せしめざる事
一、経費は一銭一厘も負担せさる事」という状況となる。
三月二三日には、原町の「雲雀ヶ原夜の森に参集したるもの無慮四百名に達し、感情の激越するところ或は不穏の沙汰にも及ばんかと尾も割るる程」であった。
警察はこれを野外集会と判断し、解散令を発した。そこでこの時の散会者らは二四日、中村町に押しかけて郡長に面会を申し入れ、中村町に設立を決定した経緯の説明を求め辞職の勧告をした。
この時の様子は「一五年の国事犯事件(福島停車場事件)の如き有様なり」と報道された。三〇日には県知事に陳情しようと青年有志らが福島に出て、その数百数十名に上ったという。知事は不在で、青年らは県吏に詰め寄った。
斎藤笹舟は「原町青年数輩、腕車を雁行して中村に迫り、中学校設置を奪取せんと挑むのであったが、それも徒労でありました」と、だまし討ちした中村に軍配を上げている。
この事件の紛争の結果、紛糾のさなか、安楽知事は転任。熊川郡長も新任地に転じた。後任の飯塚郡長は中村出身でつねに中村側に贔屓の引き倒し的態度に終始し、紛擾の責任を取って辞職した。
「原町ハ郡ノ中央ナルノミナラズ□日組合共立中学校ノ決定地ナル処ニ関セズ、今日中村ニ位置ニ指定ヲ見ルハ其当ヲ得ザルモノトナシ、指定寄付ノ支出ヲ拒ミ其付近諸村ト共ニ其不当賦課ノ取消ヲ訴願シ、郡会ノ如キハ未曾有ノ波瀾ヲ醸シ遂ニ会議ヲ中止スルニ至レリ。当時ノ郡長飯塚清通氏ハ百万調停ノ策ヲ講ジ、遂ニ情ヲ相馬子爵ニ舒ベテ其ノ投資ヲ仰ギ復参千円ノ恩賜ヲ得、而シテ指定寄付金町村負担ノ軽重ヲ計リ適度ニ之ヲ表決セリ」
(参考資料「相中相高八十年」1978年(昭和53年)
新妻三男氏「中村風土記」では、この時の飯塚郡長についてこう説明する。
<明治三十一年、福島県第四尋常中村中学校(相馬中学校の前身)を、相馬野地に発足させることを県は決めた。飯塚清通氏はその時たまたま相馬郡長の職にあった。当時該校を中村に置くか原町に置くか、郡会議員の意見が二つに割れて揉め、世論も南北鎬(しのぎ)を削って応酬し、容易に決着がつかなかった。その時飯塚郡長は、中村こそ教育的立地条件を具備した最適の地であるとの公正な判断から、断乎中村に置くことを決めた。そして自身は、郡議会を紛糾させ世論を騒がせた責任を取って、潔く野に下った。「さむらひ」ならでは出来ない芸当である。春秋に富む四十三歳のときであった。>
紛糾の大きさを物語っていよう。
しかしこの決着は、新妻三男氏がいうとおり中村が最適だったとも、飯塚郡長が公正であったとも言えまい。飯塚郡長は旧中村藩士の家の家に生まれた人物。飯塚氏の判断も、新妻氏の立場もあくまで中村の側に立った意見である。
新妻氏は、前述の文に続けてこう書いている。「わけても中村界隈のものは、最低の学費で永くその恩恵に浴することが出来た」と手ばなしの礼賛をしているのだ。
飯塚郡長よくやった、という賛意がこめあれている。中村人としての喝采は判るけれども公平とは言えない。原町を支持する郡会の半分の意見は無視されている。原町人と双葉人との義憤は同情できる。
相馬中学校事件は、原町人の心底に、中村に対する対抗意識が掻き立てられた最初の事件となった。また県に対する拭い難い不信感が以後、長く燻ったものも無理のない処置であったとも言える。このことはのちに、農学校を原町に、という声が上がることの重要な伏線となる。
ついでながら新妻氏の「中村風土記」に収録された史料として、明治三十一年当時の中村町の原町誘致反対派の文書を紹介する。
「拝啓然者当中学校問題ニ付キ郡会ニ於テ目下討議中ニ有之候処形勢甚ダ危険ニシテ同校ノ成立モ無覚束場合ニ立至リ候間至急御相談仕度本日正午ヨリ定座畠山源四郎方ヘ御出来会上下度右得貴意候也
三十一年十二月二十九年 野崎亀喜 外六名
中村町有志各位御中
尚 本文御一覧ノ上ハ御見留印相願候也」
新妻氏の注記。
「一、後尾にありきたりの認印が五十余名分ある。署名がないのでどこの誰だかよくわからないが、推定出来るものに次のものがある。」「宇多中村柚木 田町旅店高砂伊助 信濃屋 大町浜名屋 旅店西 陽盛楼(病欠) 向町荒店 大町鈴木陸送店」
「二、この案内状は、第四中学(相馬中学)誘致問題に関し、郡会議員の南北抗争が激化して暗礁に乗り上げた時、地元有志の決起を促すために出されたもので、言ふなれば中村に於ける住民運動の草分けであらう」「定坐(じょうざ)とあるのは、私どもの時分、定舞台といった中村座のこと」
「三、野崎亀喜氏は町内の顔役で、後年相馬銀行を起し頭取になった」