水車と中堀のある風景
明治の原町
斎藤笹舟著「相馬郷土文化志」第二巻郷土編(前編)226頁に
「各町々に於ける中堀」という文がある。
「今はその影を没して、町中の堀は最近まで大堀、黒木、鹿島、原町、小高、浪江、長塚、新山、熊町にありました。是は使水(つかいみず)として便利でもありましたが火防のため主として開通せられました。両岸に柳桜を植ゑ、街路樹又一種の趣を呈して、いふにいはれぬ美観、月下逍風に恋を囁く、又風情でありました。

原町一小「創立百周年記念誌けやき」の「明治の教育を語る」座談会によれば、次のような情景が改装されている。
○なつかしい川蟹取り
植田 私が小学校の頃は、町の中央に、きれいな川が流れていて、家の近くには、大木を繰り抜いたような、ずい道がありました。大きな子たちは、水のたっぷりあるずい道を向う側へ行くことが出来ましたね。私などはどうしても、そんな勇気がなく、驚きましたね。
よく蟹がおって、川辺で小蟹を取りました。川には、蟹を取るための「どう」を仕掛けておったが、どうの中に大きな蟹が二三匹かかっており、それを取ろうと思って、蟹の入る口、(かえしのある方の口)から手を入れて、蟹を取ったはよいが、手が抜けなくて困ったことがありましたね。そして遂に、編んだ網を切ってもらって、手を取り出したんです。忘れられない思い出ですね。
「学校での遊び」司会者の質問に応えて、各人それぞれ「陣取り」「石けり」「パッタ」(めんこ)「ベイブチ」「カマベイ」「凧とばし・こままわし」女の子では「石なご」(お手玉)「まりつき」などをあげている。「ベース・ボール」の項目では、
牛渡 明治四十一年ごろだったか、野球もやりました。ベース・ボールって言ってましたね。球は、ぜんまいの綿毛や、苔の枯れたものを、糸できつく巻いて作りましたね。
佐藤 キャッチボールは、バッターから五間位はなれ、ワンバンで取ってましたね。それでも、手が痛くて真っ赤でしたね。よく田んぼでやってました。
以下、運動会、勉強、行事などの項目について伺いたいと思います。
○現在の学校の辺は畑か松林
司会 明治の頃の町のようすについて伺いたいと思います。
佐藤 家が集まっていたのは、小川橋から、四ツ葉まででした。今の本町ですね。明治三十一年、原町駅ができてからでしょう。四ツ葉までの道路ができました。現在のg田子宇野あたりは、みな畑か松林でしたね。
脇坂 今の東町は、みな松林でした。山学校をするのに、よい場所でしたね。(笑)
牛渡 旭公園の四つ角の所に、井川さんという焼き餅屋さんがありました。ほかは山で、松並木みたいでした。
○町の中央には川が、界隈には水車
牛渡 新町には、堀がなかったが、本町の真ん中には、ずっと堀(川)がありましたね。
脇坂 堀があったのは、裏から抜けてきたのが、今の大石呉服屋さんの所からでてきていたのです。ところどころに橋がかかってありました。
佐藤 川の両岸には、桜、柳、松が植わってました。なつかしいですね。
植田 浜の写真屋さんの前から、ベツエン(東本願寺原町別院)の前へ流れる別れ橋のところに大木のほこらをくりぬいたような隧道があり、よく蟹どうもあかけられていました。
脇坂 原町界隈には、水車が多かったですね。私の家の誓うだけでも、七つ程もありました。水車で麦をつくようになったのは私の家が初めてかと思います。それまでは、嫁の仕事としてやっていましたが。以降はだんだん水車でつくようになりました。あの水車も風情がありましたね。
司会 町の中に川があった理由は何でしょう。
佐藤 これは、川の水を使ったのです。生活のためです。川があって、家が建てられたのですから、
牛渡 米を研いだり、なべを洗ったり、飲み水を汲んだりしたのですね。鹿島も、小高も、たいていの町は、川が中央にありました。野菜も洗いました。
植田 川へ行くための階段がつくられたり、堰になっており、美しい水が滝のように流れていました。口づけして水を飲んだものです。
これより後代になるが、新聞に連載していた「ドキュメント相馬野馬追」の挿絵代わりの古い絵葉書(明治時代)写真を見て、郷愁たっぷりの文章を寄せてくれた川崎市在住の星氏の記憶によれば、次のようだ。(略)

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