明治8年 相馬野馬追復活の功労者 生前に顕彰碑が立った太田政輝
「太田村史」という稿本に、明治初期に相馬の馬追を復活させた功労者として太田政輝の名が挙げられている。その部分を紹介しよう。
「太田政輝は豪邁鍳識の人金房村鳩原に生る半谷政因の次子安政元年生る初め石神神職太田九太夫の遺蹟を再興す尋いて訓導権少講義となり太田神社の社掌となる其の神社に奉仕するや未明斎戒沐浴未だ嘗て不懈実践・行郷党の模範たり先より明治維新に際して野馬追の式祭の廃絶するや深く之れを遺憾とし之れが再興を志し官に請ひ明治八年官許を得野馬追を再興したり郷日と野喜び知るべきなり二十九年積年の苦衷は納れられ県社に昇格し萃表神殿悉く一新完備す又専ら地方社会事業に尽し日清日露戦争の戦費を献納し教育資金五百円を納る之れ村教育資本を興す初めなりとす大正二年相謀り其の寿蔵碑を建つ死後猶碑なきもの有り生前碑あるは蓋し稀なり是れ其の徳風郷人を化するの深厚なるに非ざれば胡んぞ此に至るを得んや亦偉人と謂うべし」
太田は太田神社の神職として、中村神社、小高神社の神職と連携して太政官に野馬追祭礼復興を願い出て許された。
晴れて公式的に相馬野馬追が日の目をみたわけだが、それまで祭礼が行われていなかったわけではない。明治7年にも、有志の行事として非公式的に行われていた。
ただ、野馬追祭礼の扮装をしたある個人団体がその行事をすることと、世間的にも公式的にも役所・神社・団体が主催して「組織的に」相馬双葉一体のものとして行われることの意味とは区別すべきだと考えるなら、明治8年の官許野馬追の復活をもって近代野馬追のスタートとよぶべきなのか。
その背景に、神仏分離令がある。天皇制国家神道のイデオロギー勢力の勃興があったことを指摘せざるを得ない。幕末までの地方自治政府が否定され中央集権国家となった明治政府の神仏分離令は一種の文化破壊行為とも考えられる。
相馬野馬追行事は相馬地方の妙見信仰にもとずく神事祭礼であったが、これはもともと神仏混淆の日本文化を背景にした宇宙主神「アメノミナカヌシノミコト」を仏教で垂迹した「妙見菩薩」への信仰である。
財力とマンパワーすなわち民力を束ねてきた主催主体の藩という地方国家が破壊され、相対的に生き残った組織が神社だったという理由による神職の発言権の増大という点に注目すべきだろう。
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