佐藤精明小伝
相馬地方にある報徳碑の碑文の多くは、佐藤精明撰文となっている。
佐藤精明は弘化四年六月生まれ。父は石神村の藩士佐藤充明といい、十二石の給人である。加賀(富山県)からの移民の世話や、二宮尊徳の仕法の世話役などをするかたわら私塾に子弟を集めて教育するなど、衆人に尊敬されるだけの学徳をもった人であった。こうした家庭に育った精明は七歳から学業に就いて、昭和十二年九十一歳の天寿を全うするまで、かたときも漢書を離さぬ天性の漢学者となった。
精明の長男弘毅氏にインタビューしたことがあるので、その時の文章を引用する。
「机に向かって書物を読んでいる父の後姿しか記憶がありませんな」
長く相馬農業高校の校長をつとめた佐藤弘毅氏はこう語った。
「厳しくはなかったですよ。温和な人でした。それに私の兄弟は女ばかりで、長兄は優秀だったんですが死んでしまって、男は私一人になってしまいました」
弘毅さんは漢学を志さなかったんですか?
「ええ。私は洋学でした。その頃、クラーク先生を尊敬していまして、それで札幌へ行ったのです」
クラーク博士の理念と札幌農学校の校風になじんだ弘毅氏は、その後弘前農業試験場に勤めていたが、父精明の希望もあって地元原町に帰って、求められて県立に移管された相馬農学校の校長になった。三十歳の時であった。
佐藤充明治、精明治、弘毅の三代は、典型的な学者一家といえよう。
精明は十六歳の時に中村城下の藩校育英館に入学したが、それ以前には四書五経などの儒教古典を和田禎郷について学んだ。育英館では錦織晩香について経史、書道、算学、四年間の修行を終えて慶応元年育英館を出ると翌年二年の藩命によって江戸に上り、一年間桜田門警備にあたった。
生前の精明がもっとも自慢にしたのは、慶応四年の戊辰のことである。この地方からも、時には大砲の弾丸が出てくることがある。砲弾といっても当時のものだから、鉄の塊といったふうで、着弾しても爆発しない、家に当たれば柱が壊れ、人に命中すれば運が悪いと生命を落とす、そういう代物だ。そういう内戦が慶応四年七月に浜通り広野、浪江でもあって、彼は中村藩兵として出兵している。同じ年の八月に相馬藩は官軍に帰順、そのごは官軍に従い、駒ヶ峯城を攻め、伊達郡掛田も攻略。この年九月に明治と改元された。
もうひとつの大きな事柄は、明治二年に、安井息軒の門下生となって漢学を仕上げたこと。明治三年に相馬に帰り、郷学継善館の教師なって、その後はもっぱら後進の育成に力を注ぐことになる。
明治五年の学制発布により明治六年十月には南新田小学校が創設され、精明はその初代校長となった。三十歳の時である。息子の弘毅の校長就任も三十歳なのは、郷里の人々の精明の再来願望だった。
明治十二年、福島県出仕の命が下って福島地誌編纂にたずさわった。
翌十三年に、侍従高辻子爵が福島県下巡視の折に松川浦に立ち寄ったが、このとき精明は主著「松川詩藻」を献上している。
さらに十四年には、命により上京。内務省地誌課で地誌編纂にたずさわった。
明治十五年、福島県師範学校助教諭となり、監事を兼務した。
明治十六年、史料編纂官に任命され、太政官修史館で史学研究と編集に関係した。
明治十九年、官制改革のため太政官制度は廃止されて内閣制がしかれた。その五月、逓信省属に任命され、判任官八等に叙された。
やがて明治二十一年には、郷里の老父充明の切なる希望もあって職を辞して帰省した。郷里では進修塾と称する家塾を開き、子弟を集めて漢学を教えた。
明治二十八年、再び教師としての道を選び、中等教育検定に合格して、漢文科の免状を手にした。精明は一生を漢学に生きたといっても過言ではない。明治二十九年、病気のため帰郷。学校を退職して療養した。
明治四十一年、宮城県立古川中学校教師となり、のち宮城県立白石中学校に転勤。
こうした教師としての生涯は、公務を退いた後も家塾における子弟教育として引き継がれ、幾多の人材を育成している。
佐藤精明は漢学者であると同時に文章家でもあり、多くの文章を残しているが、その代表的なものに「松川詩藻」「福島開拓史」「相馬史」などがある。
号を双峯といい、これは原町の二つ森からとったものという。
郷里にあっても全国の漢学者と交誼を保ち、勉学を怠らず、随筆も漢詩も和歌も俳句も残し、多岐にわたる才能を発揮している。
生前の写真を見ると長い白ひげをたくわえ、純粋でやさしい目なざしをしている。
ここに掲げた木彫の坐像は、相馬が生んだ彫刻家佐藤玄々の手になる作品で、よく精明翁の特徴をとらえている。
相双新報「相双の先行者」より
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