最後の寺小屋と学制発布
江戸時代末期の寺子屋として、文久元年、松風軒と号する本間新エ衛という人が仙台から来て、原町字町(三島神社のそば)で小林角治の借家となり、漢学指導を業とした。門人は五六人をとっていた。「一生独身を以て原町の為め教鞭を把られました。が、本間氏の死したるは慶応三年五月十八日、墓所は新祥寺境域にして「松風軒墳墓」の碑は無縁となり、隣墓参の時に香華の資を受くるの有様は哀れといふべく、原町に於ける学問教授に一生を捧げたる人の墳墓と思ふ時はまた涙なきをえません。これは相馬領内に於ける最終まで寺子屋として生命を保った私塾でありました。」(笹舟郷土志)
明治のはじめに、中村藩は各郷に郷学校を設置した。宇多郡中村に広業間、北郷には行方郡貸間村に設置(館名不明)。中郷には行方郡南新田村に経善館。小高郷には南小高村に(館名不明)。北標葉郡権現堂村(浪江)に明倫館。南標葉郷に興徳館を長塚村字寺内(陣屋)に、明治二年九月創立、同三年七月立志館と改名。廃寺長徳寺を後者とする。山中郷は行方郡草野村に設置(館名不明)。
中郷学校創立者は西健之助。原町西裏、道場の傍らに「経善館」の額を掲げて学校を設立した。時は明治三年十一月で、門馬次左エ門が中村から出張教授した。のち佐藤精明を推挙して引退し、佐藤精明が郷学校助教となった。この時の生徒は六十人。遠藤周輔(のちの初代原町郵便局長)・村井昌作(酒造家)・鈴木竜助(初代消防組頭)・松本良七(のち町長)・星庄太郎などは秀才と目されていた。
明治四年、生徒の中から秀才を選んで助教をさせた。鈴木竜助、松本良七、遠藤周輔、星庄太郎らである。高平村の和田(後改井戸)経重もその任に当たった。その時洋学の師(英語の教師)は仲井圭次郎であった。
明治五年に小学校制が発布された。県下では明治三年に氏家閑存が開校した新地の観海堂がもっとも古い。原町小学校は明治六年、字下町小川橋北、字宮前(寺の跡)に設立された。この頃の学校には司権者を目して校長という階級名はなかったが、佐藤精明が校長格として登用された。教授員格としては山岡隆剛(牛来の人)・水谷重完(高平の人)であった。明治七年にいたって初めて訓導という階級ができ、初めての訓導は佐藤精明。が九年頃より海東忠彦(中村の人)が在職し、十二、三年より佐藤健助・荒利助(深野の人)・富田弘(大甕の人)らが師となり、星栄・藤田直己・富田秀之進・遠藤秀雄・小林広助・桑折哲蔵・林辰衛・小林運蔵・渡部源らが第一回の卒業生となった。
明治十五年頃から校長という職名ができて、和田経重が初代の原町小学校長となった。その頃、青年学校を小学校内に設置し、中学の学を授けた。然し校長は小学校校長の兼務で佐藤精明があたった。生徒は百余名で、佐藤徳助・菅野宮次などはその頃の生徒。

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