奥州中村藩は、明治維新のあと、まもなく死ぬ。

しかし、のまおいは生きていた。

政治の制度は死ぬが、民衆の魂は死ななかった。

家老富田高慶の日記を追って、のまおいが復活してゆく姿を見てみよう。

明治二年 富田高慶日記

 五月

「同十二日雨夕晴

一明日御野馬追ニ付、御名代監物殿御出馬ノ事。

 同十三日曇

一今日御野馬追、中ノ郷給人拾騎出候事。

 同十四日曇

一昨日原釜練兵ヘ 御前御馬ニテ御出、夕刻御上リノ事。」

(明治の維新戦争の直後に行われた野馬追は、名代監物を立てて行われた。中ノ郷から十騎馬の出馬。原釜で練兵が行われた)

(明治四年は、野馬追どころではなかった。政府からの要請によって、福島伊達地方の一揆鎮圧に借り出されて治安維持活動のため相馬藩兵が出兵した。また藩内でも農民蜂起が頻発して治安出動した)

明治四年 富田高慶日記

「二月朔日晴

一今朝出庁、夕刻退出。

一今暁東京より飛脚着。取締御人数数出被仰付候趣申来ル。」

「同六日晴

一今朝兵隊東京へ出立ノ事」

「同十五日晴

一今朝出庁夕退出。

一夜ニ入静慮庵より手紙来ル。川俣辺村々蜂起、福島県へ押掛候哉ニ付、応援兵繰出侯様、今村より山中飯樋陣屋へ申越趣、直ニ文庫殿へ罷越、諸官員相談、二小隊繰出ノ事ニ治定、夜半より夫々手当ニ及、先ツ小畑又兵衛組ノ卒差出候積リ申談、七ツ頃帰宅ノ事。」

 (注。静慮庵は相馬藩の政治顧問慈隆和尚の居所。)

 二月十六日晴

一今朝六ツ半頃兵隊出立ノ事。

一朝出庁夕退出。

「十二月十二日晴

一朝文庫殿、下浦入来、北郷村々百姓集会ノ趣ニ付、右エ門出張ノ由。右ニ付相談有之。

一佐々木、大槻、木崎、昼後より北郷へ出張ノ事。

一夕文庫殿より手紙来ル。小池原屯集ノ処へ門馬下浦出張、及理解早速退散ノ趣申来ル。

夜ニ入佐々木より様子手紙ニテ申来ル。

 同十四日晴

一今朝半杭直人来リ、北方村々新城林へ集会ノ由申聞ル。早速佐々木、。大槻、門馬、西内出張暁方山田清八郎来リ、百姓共退散ノ由申聞候方。」

一今夕七ツ半過、木幡左司馬組兵隊発足ノ事。

 同十八日晴

一今朝出庁夕暮退出。

昼過福島より飛脚着。同県知事より直書を以、跡兵隊ニ小隊繰り出し候様申来ル。夫々相談、小畑幸左エ門般若源右エ門組、三小隊出兵被仰付候事。

 同十九日晴

一今朝出庁夕刻退出。

一今朝小畑組兵隊出発。夕般若組同断ノ事。」

「同二十五日晴

般若源右エ門兵隊、今夕福島より帰ル。

 二月廿六日晴

一夕般若源右エ門来ル、福島ノ都合承り候事」

 三月五日晴

「一夜中鳩原ノ郷より帰リ来ル。堤谷村ノ儀、御仕法理解ニ心服ノ趣申聞候事。」

明治五年

「太田神社同掌佐藤正久、家中土着の太田弘仲等相謀り、同社の祭事として要路者、在郷給人・郷士・地方の有力者の協力を得て明治五年五月十三日(中の申の日)廃藩後初の野馬追として祭典を執行した」

五月二十日、野馬追に、氏族、卒持乗りの甲冑等勝手に取用出馬不苦旨五人頭より回状あり。」

六月十三日、旧暦には今日中の申ノ日にて、旧来より御野馬追御祭礼有之処、御一新には四月十八日旧暦三月廿二日の御祭礼にて相済候事と相見へ、御野馬追の御沙汰更に無し。」

明治六年

「明治六年には小高神社、翌七年には中村神社も参加し、三社合同の祭事として、すべて神社、氏子等が中心となって行われた」

明治六年六月

「同十一日晴

一今昼過郵便へ東京大槻より来状、去ル三日付ニテ差出候由、原町より相達ス。」

(原町郵便局が設置されて、それまで飛脚に代わって初めて「郵便」の文字が富田日記に登場)

明治七年七月

「同二日晴

今日原ニテ多人数乗馬見物人来ル。旧来ノ祭礼ニ准スト。

(原町雲雀ヶ原において、大勢の観客が集まっての野馬追の復活)

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