明治42年

翌々年の7月には、祭初日に民報に野馬追の写真が掲載されている。これはもちろん、絵葉書用の野馬追写真を撮影する業者が、地元で土産物として絵葉書を販売する店に依頼されて千円に撮影したもの。42年夏の撮影と推定される8枚セットの絵葉書写真があるが、この中の1葉に、韓国国旗を掲揚し、これを前に野馬追騎馬が整列するものが含まれている。
恒例の野馬追のほかに、8月、特別に108騎を召集して臨時野馬追を開催。
日本における父親代わりの伊藤博文公に連れられた韓国皇太子が、東北巡幸の途次に、平駅に続き、原ノ町駅にも停車した。
伊藤はこの年、ハルピン駅頭で、革命家安重根によって射殺される運命にある。大韓帝国は翌年、日韓併合によって亡国する運命にある。韓国皇太子はわずか十歳の政治的人質であった。
原町駅東側で、車窓からよく見えるような場所を選んで東京からのご料車到着を待機した。列車が駅に近づくと、花火が揚げられた。日韓両国の旗が入れられていた。これに気づいた伊藤公が「停まれ」と命じた。列車は徐行しながら駅構内に滑り込むが、停車は6分。都合4分間の野馬追を演じて見せた。
前年の東宮巡幸時の野馬追写真や、子供の絵を記念の土産に渡したという。車中で、それらを眺めたであろう。この項、福島新聞、民友による。
復路に韓国皇太子らは福島を訪問しているが、寝所に野馬追の屏風を飾った、という。民報による。

明治43年民報
明治43年 上洛野馬追

4月5日民報。
4.17.民報 上洛野馬追記 志賀擬山
4.18.民報 上洛野馬追雑記
これらの記事は、原町出身の志賀義三郎が民報記者として同行取材している。志賀千代蔵と兄弟で民報に勤めていた。原町はホームグラウンドのようなものであり、野馬追を紹介する筆にも力が入った。
七月の野馬追には佐藤政蔵に招待された民報の巴江という記者、斎藤亀五郎が原町を訪問して記事を書いた。
十一日△町内の満艦飾
△旧藩主御令息
△祭典費に七百円
十二日△活動写真撮影 野馬追祭の盛況を活動写真のフィルムに撮影すべく仏人某は本日頃来原する由(九日原町に於て巴江生)
十三日「原町実業団設宴」の記事には、磐城屋で佐藤政蔵、阿部源蔵、小林茂助、松永留之助、門馬勇蔵、山本芳太郎、滝沢次郎、小国忠助らが集まり、久保和三郎と志賀千代蔵の出張をもてなし、代表して佐藤徳助が挨拶を述べた、とある。
久保は民報の花形記者。千代蔵は社長代理という重席だ。

7.2. 野馬追宵乗競馬会
7月11日民報
〇相馬の野馬追 宵乗の前景気
△ 相馬の野馬追
△ 町内の満艦飾 停車場通なる旭町より本町に至る十余町の間を始め町内各戸に競ふて街頭に国旗を掲げ造花を挿し提灯を吊し満艦飾を施して美観を添へ昼夜間断なく数百本の煙火を打揚ぐべし

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