はらのまち繁盛記
原町は古来、宿場町であった。原っぱの中の一本道に集落が誕生した。城下町でもなければ門前町でもない。とすれば、明治以降の近代になって農村を背景とした商業の町であり、ますますその町の特色は商家の町に特化され、ことに常磐鉄道の開通によって機関庫の設置で発着駅となった原町は物産の集積地として工場誘致と労働人口の集積が進むに及んで、商業もまた活況を呈するようになる。本章では、商業と景況にスポットをあてた同時代の新聞資料その他の資料によって俯瞰してみる。
火事の中から誕生
戊辰戦争で相馬藩が敗走したとき、仙台藩兵が宿駅を焼いて北上して逃げた。わずかな家並みは燃え尽き、復興して明治の時代になって最初の試練はまたもや火事だった。明治十四年に中村が大火で焼けた。するとつづいて翌年原町も大火に見舞われた。焼け残った半分の町並みが、その翌年また焼けた。
明治初年まで戸数125戸 長さ700メートルの一本町
慶応4年3月5日写す
絵地図
8月2日 原町宿が兵火で焼失。
8月4日 中村藩降伏
明治4年
廃刀令
明治5年
野馬が狩り尽くされる
12.2.人身売買に禁止令
12.3.太陽暦に移行
明治6年
郵便取扱所
小学校が出来る。
明治7年
商家は松本、門馬の二軒のみ。
明治8年 野馬追に官許
明治9年
福島県誕生
明治10年
西南戦争起こる
中村警察署の分署が南新田村に設置
明治11年
第一回県会
歴史資料館では、明治十二年一月一日調べ日本全国郡区分人口表というものがあり、この中に行方郡五十村男女合計二万四千九百五十五人という記載がありました。
明治12年
郡長大須賀次郎「巡村雑記」
産馬、養蚕、抄紙、大茶畦、鰹船、鰯の地引、春冬は立網を行う。
明治13年
岡田健長、県議会副議長に
明治14年
第一回農会
明治15年 はらまち大火
2.12. 200戸焼失 本町84戸 353棟 火元、青年学校
明治16年 はらまち大火
1.4. 23戸焼失
明治17年
加波山事件
明治19年
行方郡 戸数5594 人口40091人
明治20年
戸数 人口
原町 433 2450
高平 323 2531
太田 451 3912
大甕 313 2702
石神 586 4113
計 2106 15708
明治21年
福島県米麦蚕種繭生糸共進会受賞者
明治22年
町村制で南新田村と渋佐村が合併して原町村が誕生
人口 戸数
行方郡 石神村4316 683
大甕村3742 464
太田村2951 382
高平村2609 329
原町村2579 413
宇多郡 中村町5610 946