明治33年 夜の森公園開設さる
明治四年に発行の「奥相志」に出てくる「夜の森」の記述は次の通り。
宵森(よのもり)子狐山 原町南街道の西、原中にあり。衆人此の山に登り野馬追を見る。
里謡に謂ふ所、往昔渺々たる平原にして野馬逐を見る者南山に登らざれば即ち視る能はず。衆人歎じて曰く、此の地に山有らば即ち壮観甚だ佳ならんと。其の夜、山此の地に出ず。諸人大に驚感す。故に夜嶺と名づくと云ふ。山上に神有り末に記す。夜嶺の前に小河有り。街路に小橋を架す。
一夜にして出来た山という意味で「宵森」の由来を語る、有名な伝承である。
明治三十六年に仙台鉄道局発行の「原釜案内」に紹介された「原ノ町情勢一班」には夜の森公園のことについて
山上には亭々たる翠松あり山腹には桜樹十数株あり、細流山ろくを巡り風光絶佳と称す、明治三十三年五月 東宮殿下御慶事記念として町会の決議を以て町立公園となせり。」
とみえる。
また大正七年、海岸タイムス刊行の「相馬原町案内」によれば、次の通り。
▲夜ノ森公園 当所唯一の高台にして雲雀ヶ原を一眸に収む。明治三十五年五月東宮殿下御盛儀の記念公園にして町の経営に属す、面積三丁六段五畝二十七歩、四方に桜を植え花時彩霞靉く。東久邇宮殿下御手植の松あり、大正六年七月十一日野馬追御台覧記念の御手植なり。時の町長佐藤徳助氏公園開設の記あり左に掲ぐ。
註。彩霞靉(さいしんたなび)く
夜森公園開設の記
雲雀野原頭一丘隆然として峙つもの之を夜森山となす四望豁然風光明媚春花秋月来たり観る者常に群を為す町民修めて以て公園となさんと欲するや久し然れども地官に属し施設意の如くならず以て憾とす今ここ五月 東宮殿下婚姻の盛儀を挙げさせらるるに遇ふ町民此地に会し謹みて奉祝の赤誠を致し猶ほ此空前の盛時を永遠に伝へんために記念公園を拓き衆と共に永く楽まんと町会の議決を以て六月二十六日請願書を呈し八月十八日を以て聴許せらるる町民宿昔の希望全く達することを得たり寔に是れ盛典の余徳本町の至慶なり今より後此地に遊ぶもの昭代の至治を欽仰し 皇室の盛徳を賛頌し偕楽遊嬉以て天与の風景を弄し精神気力を養ふ亦善からずや聊か其由る所を記すと云璽。 明治三十三年八月」
昭和二十五年の「歌のはらのまち」には、こうある。
「夜の森公園
山は白雪ふもとは霞 里は桜の花盛り
春の夜の森おぼろにふけて 花のしぐれに月の傘
おぼろ月夜のしぐれの花は ふられながらも心地よい
此の夜の森公園は明治三十三年時の町長佐藤徳助氏が当時官有地たりしを払下げ、町民の遊園地ならしめんとの苦心の賜である。先帝の御慶事記念として出来た後援である。色とりどりのさま桜、吉野桜が苔むす枝に咲き乱れ、おぼろ月夜の眺めなどまた一しほの風情であります。酌み交わす盃に花片の散り込むあたり、其のまま歌になって居ります。丘の上には佐藤徳助置きなの銅像があったが大東亜戦争中供出して台丈が残って居ります。復活の日はないものか
春はうれしや 二人揃ふて夜の森公園
おぼろ月夜の桜狩り
風もないのに散る花は チョット二人の袖の上」

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