雲雀ヶ原ものがたり
のまおい百年史
二上英朗
はじめに
野馬原あるいは牛越原また単に原と呼ばれていた原町郊外の草原は、こんにち定着した名称の雲雀ヶ原とも称されて藩政時代から相馬藩の野馬追祭の催事場として使用されてきた。大正期からは飛行場として有望視された。
「雲雀ヶ原、遙かなり」で描いた大正から昭和にかけての町民と飛行機との出会いにすでに大要を記したので、これに補足して、雲雀ヶ原を舞台にした明治以降の近代野馬追や原町競馬、皇族の台覧や磐城無電局開局式などで行われた臨時野馬追、上京した出張野馬追などの新聞記事の年代と件名を追って時代をつなぎ、参考に供したい。
民報を中心に民友、福島新聞、福島毎日、福島日日、朝日などを俯瞰する。

その前に、明治初期の野馬追が中断されていた時期について述べておく。
「野馬追と御本陣」
慶応四年に幕府が倒れて、新政権が成立し、翌明治二年には旧藩最後の野馬追が行われた。四年には藩が解体し、野馬が捕獲されて妙見神馬の牧は消滅したので、野馬追神事の基盤もここに失なわれるにいたった。
しかし七年には、妙見三社の例祭として毎年七月の一、二、三日を祭日とし、第一日を宵乗、第二日を野馬追、第三日を野馬懸の日とし、後の祭式次第の原形ができた。野馬追の祭場地は原町市内の雲雀ヶ原に定められ、従来の野馬を追う形式が、神旗を打ち上げて馬上で争奪する形式になったのも、この時以来である。
以上、山本明・原町市の文化財62p(61.11.)より

日程の変更
旧藩時代は長い間、五月の中の申、都合の悪い時は前後の申の日、が原則であったが、明治以降はしばしば変更されている。
明治五年は五月中の申の日は十三日であったが、旧暦のまま行われ、明治七年はじめて太田、小高、中村三社合同で、七月一日宵乗、二日野馬追、三日野馬懸が行われたが、旧暦の中の申が新暦の七月二日に当たったからであった。
明治三十七年からは、七月十一日宵乗、十二日野馬追、十三日野馬懸となって昭和三十五年まで続いたが、この頃は梅雨もまだあがらず、また盆にかかって観覧者に不便であるので、昭和三十六年から数年間は七月十七日宵乗、十八日野馬追、十九日野馬懸と改めた。しかしそれでも中途半端な感があるというので、学校の休みに入ることやその他の事情も考えて、昭和四十一年から七月二十三日宵乗、二十四日野馬追、二十五日野馬懸と改められ現在におよんでいる。
相馬野馬追史23pより。(56.4.25.)

旧原町市史年表には明治5年の出来事として、「野馬追原は国有地となり、野馬がとりつくされた。」明治8年の出来事として「妙見三社出御の野馬追が復活した」とある。
62年の原町市教委文化課発行「原町市の文化財」年表に「明治4年、伝統の野馬追は廃止された」、明治8年に「妙見三社の祭事として野馬追が復活する」とある。中間に野馬追に関する記述はない。これを見れば、野馬追行事は中断していたと受け取るのが当然だろう。この年表は広瀬正弘氏が担当した。詳細に比較すると草野信氏が書いた43年原町市史年表をほとんどそのまま転記し、さらに教員の給料うんぬんと添加した部分があるのが奇異に感じる。教員であった広瀬氏が、どういう意図で、この事項のみ添加をしたのか不明だが、63年の「原町市の文化財」第二巻で筆を執った同じく教員だった民俗学畑の山本明氏とは、歴史に対する姿勢が異なる。
しかし、野馬追は明治5年にも、6年にも、7年にも行われている。63年「原町市の文化財」にもちゃんと明治5年の野馬追に言及がある。藤田魁山の自費出版「野馬追小考」にも、詳しく近代野馬追の解説が載っている。歴史的遺物の原町市史を参考にせずとも、典拠資料は他にあったのだ。
56年には、相馬野馬追執行委員会が「相馬野馬追史」を発行しており、事務局はやはり同じ原町市教委文化課である。
同じ部署から、別々な記録が出されて不問に付されている。原町市教育委員会は市民に対して歴史的な判断の基準材料を提供しているというよりも、混乱そのものを発信しているとしか思えない。

明治4年1月16日には、明治維新の混乱で、各地に暴動が起こり、福島県の要請で中村藩も農民騒動の鎮圧に出動、2月5日には明治政府の命令で東京市中の警備に出兵させられていたため、野馬追どころではなかった。7月14日に廃藩置県で中村藩が廃止。11月2日に中村県は平県に編入。11月28日には平県が廃止されて岩前県となる。すべてを自前で決定できる自治国であった中村藩を後継したこれらの新県は明治政府に直接支配される下部組織である。しかもコロコロと忙しく行政機構が変転する。のんびりと野馬追行事などやっている暇がなかったのである。
政治の季節の嵐をよそに、藩という自治権力のなくなった相馬の地で、伝統の姿を続けていたのは神社であった。しかも祭場地の野馬追原に最も近い太田神社が独断で行っていた。その中心人物が太田政輝という。
太田神社の神職として、政輝は中村神社、小高神社の神職と連携して太政官に野馬追復活を願い出て許された。それまでは、太田のいる太田神社が野馬追を実施していた。晴れて国家のお墨付きを戴いた訳だが、それまで祭が廃止されていた訳ではない。天皇制が神社宗教と結びつけて日本の支配思想としたことと、野馬追執行の主導権を神職にある人物がリードしたことが、野馬追存続の鍵になったのだ。
政輝は、鳩原の太田政因の次子。安政元年生まれで最初、石神の神職太田九太夫の遺績を再興し、訓導権少講義となり、太田侍医者の社掌となった。明治維新で中断した野馬追の廃絶を憂い、その再興のために奔走。官許を得た。復興の功績者である。太田神社は29年、県社に昇格。村人はこぞって太田の功績を称え、死後ではなく生前の大正2年に寿蔵碑を建てた。
死後に顕彰碑が建つことはあるが、生前に建てられるのはまさに偉人の証明だと「太田村史」にあるが、しかし、太田は晩年の大正7年になって、村人の総スカンを食らうことになる。大正5年に太田村に開業した息子登志彦を、太田神社の後継にしようと画策したため、これに反発した氏子総代ら村人が騒擾し、村長以下が鳩首会合した結果、氏子総代と登志彦はついに職を辞する。しかし原因を作ったのは政輝であった。
蓋棺して初めて人の真価は完了する。生前に顕彰碑を建てる善し悪しが問われた一件である。
この項、「太田村史」と民友(7.8.5.)「紛擾を高めつつある相馬妙見社々司問題 氏子総代並に社司辞職す」による。

常磐線開通以後

明治31年の常磐線原ノ町駅の開業によって、周辺町村、遠方からの見物人の来訪が容易になり、野馬追は急速に観光化してゆくこととなる。
福島本社の記者が取材に来訪することで、毎年の馬追は大々的に報道されて、県下を代表する祭礼という評価と位置が定着する。
交通の便と、報道。ことに、福島民報の社長に就任した松本孫右衛門の存在は大きかった。松本の財力は、まさに鉄道で儲けたものであり、その資産が見込まれて倒産寸前の民報社長に就任し、政党機関紙であった民報を大衆商業紙に改造した。また佐藤政蔵、半谷清濤らを訪問する、記者、文人たちの野馬追紹介も宣伝に寄与している。歴代の知事や高級官吏、貴顕紳士の来訪も、大いに野馬追宣伝に効果あった。一時期は、県知事、内務部長、警察部長、各部局長ら県庁幹部スタッフ全部が見物に来るというのが通例でさえあった。
野馬追が世間に大きく宣伝されるのは30年代になってからである。

注釈

訓導権少講義・・・明治の訓導職について wikipediaより

教導職は、無給の官吏で、当初は全ての神官(当時は神職はいない)と神道家僧侶が任命された。また、民間の有識者も任命された。研究教育機関として増上寺大教院を設置し、地方に中教院・小教院を設置した。

教導職は「三条の教則」(敬神愛国、天理人道、皇上奉戴)に基づき、各地の社寺で説教を行った。講じられた内容は国家・天皇への恭順や、敬神思想を中心としたが、そのほか、家族倫理、文明開化国際化権利義務富国強兵についての講義がなされ、国民教育の一端を担うことが期待された。教正、講義、訓導などの階級に分かれ、それぞれに大、中、小の別があり、全部で14階級あった。

神官と僧侶の対立や、島地黙雷らによる強硬な反対運動や、神官教導職内部の混乱などにより、大教宣布は不振に終わった。明治8年(1875年)には大教院が廃止となり、神仏合同布教が停止となった。明治10年(1877年)には教部省廃止、明治15年(1882年)には教導職の主要な担い手であったはずの神官が教導職の兼務を禁止され、ついに明治17年に教導職は廃止された。

目立った効果を挙げなかった教導職の活動であるが、その制度は、のちの教派神道の各教団の制度のモデルとなった。

はらのまち100年史

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