87 教え子
藤田魁は原町高校で美術教師として教鞭をとったことがある。石神中学校教諭の畑中豊満は、昭和三十一年に原高に入学し、教えを受けたことがある。その時の記憶を日本甲冑武具研究保存会福島県支部機関紙「甲冑相馬」に書いている。
「一学年の時、芸能教科の選択教科として、美術を選択しました。担当教諭は藤田先生で、私達が先生にとっては最後の生徒となり、翌三月に勇退されました。ご存知の方々もおられると思い増すが、藤田先生は野馬追祭典には三十有余年出馬され、昭和四十四年には、中ノ郷大将を務められた立派な方です。
一学期七月までの週二時間の授業というのは、相馬野馬追祭も歴史に始まり、スライド上映等を利用した野馬追の解説であった。当時としては、教材の内容からかけ離れた授業ではないかと感じながらも授業を聞いていたものです。
しかし、この授業が私を野馬追祭典にかりたてた原因になっているかは定かでないが、多少なりとも大きな印象を与えてくれたことは事実である。
物心ついた時に、雲雀ケ原では原町競馬が行われており、いつも競馬を見に行ったものです。また七月十一、十二日の野馬追祭には、朝早く母に弁当を作ってもらい、雲雀ケ原に行って祭りの一部始終をつぶさに見たものです。今と違って、祭りが荒々しく、行列等は人家に片足を入れてみるという、逃げ場を作っての見物であったと記憶しています。」
畑山は昭和四十四年から相馬野馬追に参加している。当時、馬を求めることが容易で葉なかった。石神の知人から借りて、乗馬の経験はほとんどなく、やっとの思いでの賛歌だったという。
今では自分の馬を持つことができた。が、市内在住のため、馬は高平の知人宅で飼ってもらっている。がたえず出掛けていっては馬小屋のボロ出しや練馬に一年を費やし、野馬追祭への準備に明け暮れる。
「他人からみれば、何とたわけたことかと思うでしょうが、相馬に生まれ、相馬で生活しているものにとって、相馬野馬追を保存し、後世に受け継ぐのが、至上命令と思っています」
と言い切る。
畑山が初出馬したころは、出馬頭数が三百騎程度まで落ち込んだ記事だった。しかもサラブレッド種は数える程度で、ほとんどが中間種であり、野馬追祭そのものの行事も、馬の脚に比例して、スピーデイに運ばれているような気もする、という。
「甲冑競馬も貴重な財産として大事にしていかなければならない。この祭りを伝承してきた人人の数が計り知れないと思いますし、また今後も多く野人の手に受け継がれていく。その橋渡しとして、この自分が係って野馬追祭礼の魂を後世に遺していきたい」
日本では、物心を捨てて集団に尽くす人は、すでにカミである。
伝統文化相馬野馬追は、その伝統文化相馬野馬はそのその存在に関して、こうした厳粛な言葉を吐く人がその中核となって成り立っている。
小さな神々の祭りなのだろう。
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