丸森町丸山城頂上にて2019.7.18

78 伊達と相馬の五十年戦争
鹿島町在住の文化財愛好家大井芳治は「相馬がやられる側のドラマなんか見てらんにぇ」と言って、番組を無視する一人だ。しかし、その時代への関心は人一倍強烈で、せっせと史料を調べては職場の同僚たちに自作のプリントを配る。
大井が「相馬藩政史」から抜き出した相馬と伊達の戦争年譜を手掛かりにたどってゆくと、この抗争は実に五十年間続いたことがわかる。
そもそも伊達と相馬は、肉親を交換しあう友好国どおしであったことは、すでに述べた。
しかし、婚姻関係は骨肉の争いを呼ぶ関係でもある。天文九年(一五四七)に、伊達家の父子関係に相馬が割って入り、子の晴宗をっ破って、父の稹胤を引き取って顕胤が小高城に帰るということがあった。
その後険悪化した伊達と相馬の間で戦争状態が続く。
弘治三年(一五五七)には、相馬内部で裏切りがある。黒木館主青田信濃、中村城代中村式部の二人が密かに伊達と通じて謀反を起こす。盛胤・義胤の両公が小高より出馬し、立谷の南、貝殻坂と駒ケ嶺の相善原で追撃して滅ぼしている。
同じ年に、顕胤公の夫人の兄にあたる伊達氏の一門亘理元宗が、名取郡北目是義とと不和になり、相馬に加勢を頼んだため、相馬は援軍を送って北目城を攻め落としている。
翌永禄七年(一五六四)には、伊具郡の小佐井。金津の二城を攻略。さらに元亀元年(一五七〇)には、伊具郡丸森城を攻め落とした。
だが天正三年(一五七五)には、伊達輝宗の軍勢が、同じ名取郡座流川で、今度は相馬軍を打ち負かす。
翌天正四年には、亘理は輝宗につき、相馬と絶縁状態となる。
同年、相馬は輝宗の大軍を伊具の冥加山に戦って破った。相馬の史上初の大勝利で、千四百人を倒したという。
天正四年には、再び黒木城代黒木忠務、堀川四郎が伊達に寝返り謀反を起こしたために殺される。
天正九年(一五八一)には、輝宗と政宗の父子が、宇多郡小深田(駒ケ嶺の西方)に攻め寄せてきたが撃退。四月のことである。七月には再び政宗父子が丸森金山の城に迫ったが、これも撃退。
十一月には伊具館山で伊達軍と戦い、翌天正十年三月には、同郡相沢で戦っている。
天正十一年(一五八三)には、つかの間の休戦が成り、佐竹、岩城、田村の周辺諸侯が和平をあっせんした。金山、丸森を伊達に返還したのである。
同年、田村清顕(つまり愛姫の父)が急死したため、家督相続をめぐって衝突し、和平一年もたたぬうち再び戦争状態に戻る。

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