72 野馬追町長
初代町長として信じられてきた佐藤徳助は、実は二代目であることが原町市史の新刊で判明したが、原町の中心にある夜の森公園に町の功労者として銅像が建立されている。
この徳助が明治35年に作詞出版した「野馬追唱歌」というものがある。
連休の大型イベント「春のふれあい野馬追」が開始する直前に、明治三五年六月二八日発行という奥付のある「野馬追 附相馬案内」という小冊子が発見された。
曲は当時のプロ作曲家で仙台在住の四釜某氏に依頼してできた。これを現代に復活させようという実行委員会の働きかけで、原町二中の玉川晃校長が担当。吹奏楽部顧問の阿部祐治教諭が一週間がかりで冊子に掲載されたメロデイラインを各パートの総譜(スコア)に起こして練習し、春季振興競馬の後クラクションで四月二十九日に初めて雲雀が原で発表された。
この冊子には、野馬追唱歌とともに相馬案内という歌詞も載せられており、その原文は旧家の叶屋佐藤家に校本として保存されている。佐藤徳助原町町長は町政開始の頃に活躍した人物で、現当主篤行氏の曽祖父にあたる。
徳助は野馬追町長と異名された先覚者で、野馬追で発症した原町は野馬追とともに栄える町だと信じて観光野馬追を初めて唱えた近代化の功労者ともいうべき人物。
歌詞は次の通り。
一、弓弦ならさずほことらず
治まる御世にもものふの
よろひかぶとに身をかため
馬にうちのり旗さして
いさみにいさめるいでたちの
むかしがたりをまのあたり
見るは相馬の野馬追ぞ
見よや人々此のまつり
二、錦や綾を身にまとひ
だしや手踊りわざをきみの
をみなわらべをよろこばす
相馬まつりのめずらしさ
見ぬ人あらばみし人に
ききてたづねよそのさまを
三、祭りはとしどし七月の
一日二日の定めにて
ところは相馬の原の町
名に聞こえたる雲雀原
ゆききはやすき記者もあり
常磐線の停車場(ステイション)
原の町とてなも高し
四、此処はもとより二等駅
のりおり共にたよりよし
内外の人のけじめなく
ふるさとたづぬるたねとして
兵器その他の沿革を
しるべき一助となるぞかし
たぐいまたなき此のまつり
雄々しきさまの此祭
五、そもそも祭のみなもとの
遠きむかしをたづねれば
文治の頃に関東に
ならぶものなく聞こえたる
師胤公が有し世に
小金が原なる野馬おひて
その氏神をまつられし
是より祭のはじめなる
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