70 祭りは生きている
小高郷文化財保存会代表半谷猶清は昭和十二年の相馬野馬追一千年祭には二十七歳で出場している。当時の肩書は組頭。翌年から軍者となった。
「あの時の宵祭り会場は今の祭場地ではなくて、原紡(原町紡織=現在の国見団地)工場のあったあたりだった。
相馬農蚕学校の生徒さんたちが(会場係を)担当してましたね。流鏑馬というのを初めて見た。出場した騎馬の数は一千百十七騎。先頭の騎馬が野馬原に入っても、最後尾の行列は(原町の旧街道道筋の北端の)小川橋の先まで並んでいたほど、相馬野馬追の歴史の中でも最多の数だった。しかも昔の鎧は、みな本物で立派だった。そのすばらしさをみなさん想像してほしい」
半谷は、控えの部屋で大事なことを買って居る。小高の野馬懸け神事が、古来行われてはいたものの、近代に至って中断されており、この相馬野馬追一千年祭を契機に、復活して行われるようになったというのだ。
だとすれば、今日の相馬野馬追の姿の文化財としての価値ある部分が、この時から発生した訳なのだ。まさにこの神事と伝承的存続こそ、今日から見ると一千年祭の意義であった。
花火も競馬も、現代人向けのアトラクションに過ぎぬ。
張りぼて観光の分だけが、世に謂う相馬野馬追の姿だとみられている。
一千年祭では全軍を二つに分けて模擬騎馬戦を演じたという。
現代の相馬野馬追が古来からの伝承でないことは自明である。
試行錯誤から、いにしえの姿を復活しようとしてきた努力の総和が、今日の祭りに命を与えて居る。
まさに祭りは生きて居るのだ。
座談会に臨んで、もう一人の話者は小高業文化財保存会事務局長である門馬博文だ。
門馬は古文書から拾って自分で編纂し、甲冑装着の方法を一巻にしたものを会場に開陳して、鎧の着方や該博な知識を披露した。
また藩政時代の野馬追の様子についても語る。
「相馬藩政史によると藩政当時にも相馬の野馬追の名は全国にとどろいていた。いろんな文献に野馬追のことは出てくるが、そんな中に、野馬追のころになると全国から無頼の博徒が相馬に集まってきては賭博をご開帳していたという記述がある。これが幕府に聞こえてお咎めを受けたりしている。近郷きんざいから祭りを見物に来る人大変な数の上った。商人は商人で、匂いのするような豆腐を売ったり、野馬追になると豆腐の大きさが小さくなったりしました。菓子や酒を売る商人は、かなりなぼろ儲けをしていたようだ。そういう庶民の姿も書かれている」
古代の野馬追を現代によみがえらせようという熱意から「春のふれあい野馬追」週間実行委員会では、槍や鉄砲の隊などの徒歩組を仕立てて実演する。
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