69 火付け役
原町青年会議所の三月例会で、野馬追一千年祭を語る座談会が行われ司会をつとめた。というより相馬野馬追についてしようという私どもの企画で、各分野で研究している先生方のお話を聞こうという会であった。忘れられていたものを取り戻すために一千五十年祭はグッドタイミングだ。当初は出場者による座談会の予定であったが、現在建材の出場者も記憶は薄れている。全貌について知る人は皆無。そこで今回は五月の連休の「ふれあい野馬追週間」というイベントの前夜に意気を高揚させようと青年会議所の準備祭のようなものとなった。
出席いただいたのは、原町高校の恩師で富岡高校の川内分校教頭の西徹雄氏、小高郷文化財愛好会の会長で野馬追功労者、日本甲冑武具研究保存会員で野馬追研究科の門馬博文氏。みな個人的に私自身の知恵袋だ。
西氏は語る。
「伊達政宗フィーバーですが、相馬こそ伊達の最良のライバルだった。もし伊達が天下を取るために仙道(中通り)でなく相馬に入れば、大損害を受けたことだろう。伊達は相馬との抗争によって実戦や戦術を磨いたといえる」
「三春田村氏の奥方は当時の相馬藩主相馬義胤のおばさんにあたる。その娘の愛姫が伊達政宗の正室。三春の田村氏が亡くなると、政権の後継者がなかったためにお家騒動の危機に直面する。田村なきあとの三春は伊達側と相馬側の二派にわかれてしまう。そんな時、相馬儀胤は混乱する三春城に乗り込んで、乗っ取りを諮るという大冒険をしている。結局、義胤は大惨敗して、船引から富岡に逃れるのだが、この場面なども想像すると歴史の一ページとして大変興味深い。」
西氏は現在、富岡高校の川内分校の教頭。かの地の山河の光景は、そんな歴史の一齣の背景として、いやます効果的である。
「今から一千五十年まえといえば、関東は大変な歴史の中にあった。九三六年になりましょうか。将門という時代の反逆者が、新たな王国を立てようと、一帯を支配し、戦乱の巷だった」。
西氏の熱いメッセージは滔々と青年たちに向かって訴えられた。
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