66 石田三成の温情
「まことに有り難き仕合わせ。これもひとえに、おてまえさまの恩情ある思いやりの賜物でござる」
と伏見の石田三成の屋敷へ礼に行き、
「これは心ばかりの粗品」
と言って、相馬義胤は陸奥の山金を五貫匁あまりを歳暮として届けておいた。すると、翌天正十九年正月、年賀の挨拶に伺候した時、
「在京中には何かと物入りでござろう」
と三成が気を遣ってくれて、上洛中の賄料として近江大森五百石を新たに扶持してくれた。
「奥州にあっては南北朝のころよりの名門でありし、大崎、畠山の二家も今ではなくなり、わが相馬と伊達だけが御仁慈によって残されているのみにても過分なのに、此の方にての賄の心配までしていただけるとは、なんたる果報でありましょうや」
と落涙した。
男心に男が惚れて、という浪曲節の世界である。声をつまらせ、
「石田殿の御厚情をわが相馬の者どもは片時といえども忘れる事はありますまい。何時どのような際であれ、御用の節は何なりと御申し下されませ。すりゃ、相馬の野良駒に跨って、吾らは駈けつけ犬馬の労を取らせて頂きまするぞ」
「東奥中村記」という文書によると、秀吉の小田原攻めの時に、相馬義胤が遅参したために領地を召し上げられそうになり、公儀取次であった三成のとりなしで事なきを得たという。
石田三成と相馬藩との縁は、きわめて深い。のちには秀吉の朝鮮征伐いわゆる文禄の役でも、相馬藩は危うかったという説がある。
秀吉は明国朝貢の嚮導を朝鮮国王に命じたが、これに従わなかったため、一五九二年文禄元年に自ら肥前名護屋に陣して、宇喜多秀家を総帥に、加藤清正・小西行長を先鋒とし、兵十八万を朝鮮に派遣した。
この時の諸国への出兵の割当が一万石につき千名の兵であった。相馬は当時三万八千石の石高だったから四千の兵を差し向けた。ところが朝鮮攻略の前線基地は北九州。奥州からはるかに遠い。えっちらおっちら、やっとのことでたどり着いた相馬四千の兵など、今頃いらぬわ、と太閤殿下はたいそうなおかんむりだった。四千の兵をつっかえさせたうえ、領主義胤には諸国大名への接待役を命じつけたのである。
一国一城の主としては、どんなにか無念の思いであっただろう。そんな相馬の心中を慮って別室に呼んで激励してくれたのが石田治部三成であった。そういう説である。
秀吉が死んだ時には、義胤への遺物として備前の菊一文字の太刀をたまわった、と東奥中村記にある。しかしこの太刀こそ、石田三成が自分の肌身につけていたものを、太閤死後を見越して相馬を取り込むために与えたのだという俗説も盛んである。