65人質合戦
伊達稙宗(たねむね)に、岩城重隆の娘をめとることになっていたが、この時の仲介者が相馬顕胤である。義理の息子として媒酌の労をとるはずであったのが重隆が変心してこれを反故にした。怒った顕胤は、岩城を攻めて娘を奪い、伊達の手に渡した。稙宗は欣喜をもって領地の一部を顕胤に与えた。義理堅い娘婿に対して大変な惚れ込みようである。ところが、今度は稙宗の子晴宗の方が面白くない。父を西山城に軟禁してしまった。顕胤はこれを詰り、稙宗を救い出して掛田城に移した。
伊達と相馬のいさかいは、ここから始まる。のちの伊達が、義姫の出身最上氏と相争うのと同じである。もともと政略結婚は戦国の知恵であり安全保障の方法である。友好的な関係なら兄弟的な同盟を結ぶことになるが、険悪ならばすぐ決裂する。相手を信じられないからこそ人質を交換する。顕胤は盛胤、義胤と続く。戦国時代の最末期の人物である。今の静かな相馬と比べものにならなぬ戦国体制下の舞台であることを念頭に置きながら、歴史をふりかえらねばならぬ。藩というのは政治的な機能を果たす国家であると同時に血族で固めた首長国である。天下統一を経て明治の中央集権国家が出現するまでは、日本は首長国連邦であったといってよい。
さて、矢切止夫の意外史をさらに読み続けてゆく。「本朝競馬事始め」と題してサンデー毎日に連載された義胤の子利胤の物語をのぞいてみよう。のちに炭鉱本にまとめられた時に「大穴」と改題されている。
天正十八年七月、小田原が落城して秀吉は帰京する。これを追って相馬義胤はひとまず小高に戻って進物の用意をし、雪にならぬうちにと十一月に出発し、十二月には聚楽第へお礼言上のためお伺いした。
「その方、なかなかの馬術の名人じゃな。箱根の馬の駆け比べの際に、退屈しのぎに諸大名が入れ札をしあったが、みな若い政宗めに賭けおって、どやつもみな損こいたそうな」
愉快そうに秀吉は、からから大声を出して笑い、
「よう遠路、出てきたな」といたわり、
「行方(なめかた)、宇多、楢葉三郡、四万八千七百石」
の本領安堵の朱印状を出してくれた。前年伊達政宗に奪われた宇多郡駒ヶ嶺、新地の二つの砦も取り戻してくれた。
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