「南北朝と戦国時代のほとんどの時期を、奥州相馬氏は小高城を居城として戦った。私自身小高城址の小高神社宮司として毎日管理している者として、素朴な疑問として、平地にぽつんと立つ城を造って、なぜ山城を築かなかったという疑問があったが、今回守谷城址を視察しまして、相馬氏祖先が、北相馬郡の地形で鍛えた戦法を基本にして、守谷城をモデルに小高城を築造したのではないかという考えを抱きました」
 
 共通点を抜き出してみると、どちらの城も、低湿地を防備として利用している。
 舌状台地の頸部を切り通して本丸を独立丘陵としている。妙見社があり、これに接して弁天がある。小高城址の住所は相馬郡小高町大字小高字古城で俗称を八景と呼び、こちらのほうが通称として一般的だったうえに、字名を古城といい、これらの同じ地名は守谷城址の周囲に点在している。
 奥州相馬に下向した祖先が城の築造方法から戦法、地名まで移植したということは容易に想像できる。
 また千葉県流山市の小金ケ原野馬土手については、周辺は市街地として開発が進んでいるのに対して、保存状態は良好であり、保護思想が浸透している印象を得た、と相馬さんは語っている。

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