出場秘話 人馬一体の名手杉さん
奇しくも七年目の命日に取材
小高町飯崎西根田の杉一意(すぎかずい)さんの自宅には、父親一はじめさんが昭和十六年四月七日の天覧野馬追で手中にした御神旗が家宝として保存されている。
杉一さんは、昭和五十三年十月二十八日に七十八歳で亡くなっており、本紙編集長が取材を申し込んで出かけたところ、ちょうどこの日は七年目の命日にあてっていて、生前の杉さんの天覧野馬追の思い出話を知る親族が勢揃い。「杉さんへの最良の供養」と一同大喜び。
「仏のひきあわせだね」
と長男一意さん。
長女の木幡キクヨさんは、父の葬儀の時に、小高郷騎馬会が整列して霊前で礼螺を捧げた様子を、
「五十五年前の供奉続け来し 柩の父にいま鳴る礼螺」
という和歌に読んでいる。
キクヨさんは父親、ご主人と息子さんの三人が「親子三人で野馬追三代で出場したのが一番の思い出」と回想する。
「私は大正十年生まれで、天覧野馬追の年は徴兵検査だった。父が御神旗を取ったことを木化されたが、当時の新聞には、杉ではなく、松ろいう名前になっていた。旗を取るには取ったが、どうしても本陣まで走ってゆけなくて、代理の人にもっていってもらったそうです。その人画本陣で。小高郷の杉はじめ、と名乗った時に、松杉の杉だ、と言ったのだが。新聞には杉ではなく待つ、と出たらしい」
「天皇陛下が立ちあがって見てたそうです。野馬追が一番面白かったと言ってました。父は、二番目の旗を取った。一番目の旗は相馬の人、と聞いている」
「練習は裸馬でやった。きびしかったそうです」
「父は十八の時から野馬追に出て居た。草競馬では名人だった。毎年、旗を取らぬ年はなかった。朝の三時というと、こっそり起きて馬に乗って練習をする。四時に歯家に戻って、知らんふりをして草刈りに出た。人馬一体にならないと旗が取れない。」
「父の体が悪くなってから交代で野馬追に出るようになった。軍隊では輜重隊にいて馬の世話をした。うつでは野鵜かでも機会を入れたのが一番遅れたほど。馬を使うほうが楽だった。馬には必ず癖があって、癖を飲みこんで使うのが大事だ。あとは、すなおに動く。本当に一心同体でなければダメだ。」
「馬丁になって息子を野馬追に出したこともある」
次女の江井ヨシさんは、父一さんが功労賞を受けた時には、村さKの陣羽織を縫ったのが思い出だ。この年の野馬追は入院中の渡辺病院からの出陣で、一日だけの外出許可を得テ、クーラー付き自動車で本陣山山頂の表彰台までのぼった、という。
ヨシ子さんのご主人の江井武夫さんもなた大の野馬追ファン。
杉一意さんとともに、一さんの出陣につきそうことの多かった江井さんは、
「馬で往復は大へんなので、杉さんの帰り馬をあずかってよく乗ったものです。好きでなければ野馬追出場は続かない。経費も大変だが、ひどい炎暑の時だから」
江井さんは長男芳秀さん、孫の秀一郎さんも野馬追に出場させている。
最後にしめくくるように、一意さんが言った。
「自分の家で飼っていた馬に乗って出てからは、野馬追はやめらんにぇ」
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