ドキュメント相馬野馬追 59 覇王の打算
かつての義胤は、若き勇者であった。隠居の盛胤が、仙道一円に猛威をふるっていた伊達政宗の勢力に抗しきれず、家名の存続を条件に降伏しかけた時に、
伊達にくだるくらいなら、いっぞ全兵力を挙げて戦って潔く滅ぶ道を選びたい
と進言した。
言葉どおりに義胤は、背水の陣で激しく抗戦し、ついに相馬藩の独立を守り通した経過がある。
滅亡を覚悟したものの無私の戦いは、鬼神をも撃退するほどの強さであったに違いない。
さて、今度は義胤じしんが、家名の保全を念頭に、佐竹氏の下に庇護されるのを受け容れようとしたときに、その子三胤、即ち密胤、のちの利胤が激しく反対し、
「たとえ家名断絶となろうとも、内府の怒りを解くための弁明を試みて、所領安堵を訴えたい」
と進言する。
三胤はこのとき、二十二才。
結果として、相馬藩は父子二代にわたって若き豪気にによって存続することになった。
相馬藩存続のキーポイントは、日本史の流れの中における政治力学の方程式によって書8梅委されなければならない。
「奥羽永慶軍記」や、新井白石の「藩 翰 譜」によると、義胤三胤親子の必死の弁明が、仇敵伊達政宗のとりなすぃによって、処分が沙汰止みになっちゃ。
この事情はまた別な機会に書くとして、相馬藩の危機の最大のものの一つが、この時の領地没収の危機であり、また最も劇的なのが政宗の証言によって、滅亡の危機が回避されたという点にある。
この芝居がかった逆転劇には、歴史家の好みそうな材料が揃っているが、さらに話題を付け加えるならば、相馬藩側の記録によれば、自助努力の結果として、島田治兵衛という旗本の存在と彼の斡旋とがある。
島田治兵衛と相馬藩の連絡は、プライベートな域を出ない。
しかし、藩存亡のカギを、どうにかして握りたい相馬の指導者たちは、内府とのつながりをこの島田に見出し、糸口を発見したことは確かだった。
「旗本の島田に、家康の疑惑を解くだけの政治力があったかどうか、はなはだ疑わしいとせねばならないが。真相は政宗と島田の、両々あいまっての斡旋が功を奏したというところであろうか。
と、歴史家永岡慶之助は評している。
もう一つ大事な視点が抜けている。一旦は領地没収の処分を決めた家康が、盟友と家臣から相馬藩の助命を乞われた時に、その後のその後の相馬藩の存在価値をどう評価したか、という点である。
相馬を取りつぶすのはちょっと待ってみよう。ある目的のために。
戦国の最後の覇王は、気まぐれでない深謀遠慮の打算から、こう判断した。
そのお陰で、稀有なる行事「相馬野馬追」は生き延びた。
家康の本当の目的とは何なのか。