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 結果から言ってしまえば、相馬藩が石田三成の西軍に加担したとの判断によってる領地没収の処分になりながらも、一転して存続への道に繋がった背景には、家康の深謀遠慮が秘められていた、と見るべきだ。政宗の訴える相馬家弁護のとりなしによって、つまり政宗の善意と家康の寛容の連携によって、見事にめでたしめでたしの結果とみるよりは、家康の天下統一後の仮想敵国である奥州の伊達政宗をいかに東北の地に封じ込めておくかという安全牌として、窮鼠となった相馬藩を嵌めたて置いたとみるほうが、もっとも合理的な論法ではないか。戦国を生き抜いてきた家康と政宗という人物は、非凡なうえにに非凡である。常人の思想を超える人物像を凡庸なる歴史観で評価するのは至難の技であるが、平気で人を殺し、国を滅ぼすことができなければ、自国を守りとおせない世に、安全保障の盾となったものは、信義でもなく、誠意でもなく、友情でもなく、不信と猜疑と徹底的な武力と老獪な知恵であった。人質を交換しなければ信義は無効であったし、人質そのものもしおばしば無効であった。いざという時の覚悟は日常的に要求されたし、その結果の人間不信の究極の力学だけが、藩を救った。
 幼時から人質の身の上にあって、裏切りと反乱を日常的に見てきた家康が、美談だけで政策を替える人物であるとは、とうてい筆者には考えられない。
 相馬藩が存続することが、徳川幕府にとってのメリットになることは、ただ一つ。東北の雄 伊達藩に対する、つっかえ棒になることでくぁる。
 家康の西国支配と征圧のスケジュールは、つねに奥羽の諸藩の動きを気にしながら進行されてきた。
 うがった見方をすれば、家康は始めから相馬を残すつもりであったかも知れないのだ。関が原以後の徳川への忠誠を試するための領地没収という処分であったからも知れぬ、とさえ思われる。
 その後、相馬は居城小高から、牛越(原町)に新城を普請したが、それが慶長十六年には、急遽伊達藩寄りの北辺の中村(相馬)に築かれることとなる。
 

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