ドキュメント相馬野馬追 58 領地没収の危機
素朴な疑問がある。
相馬野馬追はなぜ廃れずに今日まで存続したのか。
歴史の中に露と消えても当然の状況が相馬藩にとって何度もあった。
にもかかわらずに生き残りえたのは何ゆえか。
応えは簡単ではない。相馬が精強であったと言ってみても取り消された藩の中に史上に精強な藩はいくらもあった。ことに家康の天下統一以後の諸藩の取り潰し政策の嵐はすさまじく、相馬も風前の灯であったのだ。
天下分け目の関が原といわれた一六〇〇年の合戦。日本のすべての藩は、家康に従うか大阪方に与するかのどちらかに態度を決めなければならなかった。
いわば甲冑武具の時代の総選挙であった。このとき、相馬が東軍についたのか三成軍についたのか、戦前戦後においてまで、明確にあかすことはタブーであった。
表面上、相馬は静観という態度をとった。どちらが勝っても負けても、これではまずい。どちらになっても、とばっちりがやってくる。
じじつ家康は、相馬の静観を西軍への加担と判断し、領地没収の命を下し、常陸の佐竹家をとがめられ秋田へ移れとの処断であった。
相馬は勝負の決したのちになって、翌年の一六〇一年(慶長6年)に上杉領の安達郡に出兵した。日和見もいいところである。ところが、この攻撃の結果が何と失敗というありさま。
さらに翌慶長七年五月二十四日のこと毎年の相馬野馬追を終了して、相馬義胤が家臣らとともに慰労の酒宴にいた時に、佐竹氏から急報の死者が飛び込んできた。
領地没収という処分の伝である。
義胤は色をなくした。もはや弁明の余地もない。
来るべきものが来た。と観念した。
一万石やるから家臣になって一緒に秋田に行こうとの姻戚の佐竹から秋田移住が提案された。
しかし、義胤の子で当時二十三歳の三胤(密胤)のちの利胤が反対した。
佐竹の旗の下で陪臣となる気まずい立場にはとうて落ち着けぬ。いっそ家名断絶を覚悟の上で、家康殿の怒りを解くべく江戸に上って直訴しようというのである。
江戸はまだ原野であった。
日本国の首府とするべく、都市計画の実施の真っ只中。武家政治の最後の合戦で、用のなくなったサムライたちが、幾万もの浪人となってこの新興都市に流れ込んでいた。
そんな中で、相馬家の人々は、何のつてもなく、最高権力者に内府家康の怒りをどう解こうというのか。
義胤以下、思案に暮れている。
すでに領地没収は決定済みである。
相馬家の歴史上、最大最悪の試練ともいうべきこの危機に臨んだ時に、奇しくも思い起こされるのは、若かりし頃の義胤の獅子奮迅の戦いのことである。