57回
政宗の恩返し
にもかかわらず、時折美談めいたエピソードが出てくる。平和な時代にはもてはやされる。しかし、戦国の世では、フェアプレイなどいう行為は、よほどのおめでたいおとぎ話である。
 ともあれ義胤は、熱く燃え滾っていた復讐の血潮をなだめて、武士道の建前を徹すことができた。水谷式部という部下も大したものだが、これの意見を容れた義胤という人も偉い。
 後日、堂々と戦って両家の天運にまかすとは言うものの、相馬にとっては伊達に負けないことが至上命題であり、しかも至難のことである。よもや尋常の合戦で政宗を討つなど永遠に不可能なのは分りきっている。
 この機会を逸しては、と主従ともに 夜討ちを謀ったといっても、当然のなりゆきであったはずだ。
 じじつ、義胤の配下の者が
落ち着き払った政宗の姿を憎憎しく思い、夜更けから、馬一、二頭を切りはなって嫌がらせをした。政宗がどんな対応をするのか試してみたのである。
 おおくの史話で政宗の胆力は有名であり、相馬の史話には、この夜の詳細は語られていないから、たぶんあわてず騒がずだったのであろう。
 政宗が、一宿したのは標葉郡涼ヶ森の花光院というところだが残念ながら今日この舘は跡形もない。

 義胤という人は、死に臨んで、
 われに甲冑を着せて、北方に向けて埋めよ
 と遺言したそうである。
 それが相馬のさむらいから町人百姓までの、北方の伊達氏に対する気持を代表している言葉といえよう。
 人の一生を超えた、守護者の家に生まれ、相馬に生まれたものの、それが宿業なのである。
 そういう義胤が、兵糧三百俵と大豆百俵を差し出した。その心中を、読者はどう受け止められるか。糧米、魚、塩、秩、糠、藁にいたるまで積み置いた。
 外の騒ぎに誘われて政宗は、侍従の童一人に燭灯を持たせ、白い小袖をうちかけて左の手に刀を掲げて出てきた。
 「相馬殿の御人や候、御人や候」(相馬家の人はいらっしゃるか)
 と言う。
 外が物々しく騒がしいようだが、何事であるか、家来どもが狼藉をしたのなら、よく鎮めてくだされ」
 と言って、また中に入った。沈着そのものである。
 夜が明け、ようやく政宗一行は出発と見えた。政宗は義胤のもとへ使者を出して礼を言い、整然と北へ向った。
 新井白石の「藩翰譜」には言及がないが、相馬側の記録には、このあと浜街道を北上して牛越 城の近くまで来ると、政宗は単騎だけで列を離れて、静かに悠然と相馬の城をながめやり、やがて伊達領へと戻った。
 ひそかに相馬方の尾行者が国境まで来ると、彼方に伊達の軍勢が雲霞のごとく満ち満ちて待っていたという。
 もし夜討ちが実行されていたなら、その結果は尋常ならざる結果をまねいたことは必定である。
 しかし政宗は、のちに相馬藩が領地没収の危機に瀕した時に、みずから相馬の武士道を列証し徳川内府の怒りを解いて、大いなる恩返しをなすことになるのである。

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